奄美群島は琉球弧の一部をなし、鹿児島市の南西約370〜560キロの海に連なり、人が住む島は8つある。サトウキビは、今も島々の主な作物の一つである。
17世紀初めから約260年間、奄美群島は薩摩藩の直接の支配を受け、サトウキビが島の主な作物となった。第二次世界大戦後には本土から切り離され、1953年12月25日に日本に復帰した。
琉球から薩摩へ
鹿児島県によれば、奄美の歴史には独自の時代区分がある。最も古い時代を「奄美世(あまんゆ)」と呼び、按司という首長たちが割拠した「按司世」がこれに続く。琉球王朝の時代は「那覇世」、薩摩藩の時代は「大和世」と呼ばれる。
県によれば、奄美大島は1440年前後、喜界島は1464年に琉球王朝の支配下に入り、徳之島以南はそれ以前に支配下に入った。
1609年(慶長14年)、薩摩の島津氏は琉球に軍を送った。鹿児島県はこれを「征縄役」と呼んでいる。文化庁や沖縄県は、同じ出来事を「侵攻」と呼んでいる。
県と国土交通省によれば、この結果、奄美群島は琉球から分けられて薩摩藩に直属することになった。奄美市も、薩摩藩が琉球を征討し、以後奄美は薩摩藩の領土となったと説明している。
1613年からは代官が置かれた。鹿児島県は、1871年の廃藩置県までの約260年間、奄美の人々が封建制度による厳しい自由の束縛に苦しんだとしている。奄美大島・喜界島・徳之島・沖永良部島には代官所が置かれた。
年貢としての砂糖
解釈が分かれる
奄美で砂糖づくりがどのように始まったかには、説が分かれる。鹿児島県のパンフレットは、どちらも奄美大島の大和村にまつわる二つの説を紹介している。一つは、1596〜1614年に直川智(すなおかわち)が中国へ漂着した際に製糖の技術を身につけたのが始まりという説である。もう一つは、元禄元年(1688)またはその翌年に三和良(みわら)が技術を学びに琉球へ渡り、帰島してからが始まりという説である。パンフレットによれば、糖業が産業として発展したのはこの頃からというのが現在の主流の説で、大和村の大和浜が最初の地であることは両説に共通している。
鹿児島県によれば、元禄以後、砂糖は非常に重要な意味を持つようになった。1745年(延享2年)には「換糖上納」、つまり米で納める税を黒糖に換算して納めることが決まった。県のパンフレットは、薩摩藩が奄美群島に強制的に黒糖を納めさせたと、よりはっきりと書いている。
これ以後、サトウキビが主な作物となり、県はこれが奄美の社会に重大な影響を与えたとしている。藩はなぜ黒糖を求めたのか。パンフレットによれば、幕府に命じられた木曽川の治水工事や島津重豪の開明化政策などで出費がかさみ、薩摩藩の財政は破綻の危機にあった。
砂糖が高価だった時代、黒糖は効率のよい換金作物だった。藩は調所広郷を責任者とする財政改革の一つとして、奄美の砂糖の専売制を強めた。
1830年、藩は奄美大島・徳之島・喜界島の黒糖をすべて買い上げるようになった。奄美市と県立奄美図書館はともに、農民は無理やり増産を強いられ、苦しい生活をしたと述べている。
鹿児島県は、これが奄美の人々に大きな負担をかけた一方で、財政改革の成功がのちの集成館事業や明治維新を進める資金になったとしている。
流人が残した記録
薩摩藩の時代の島の暮らしは、奄美大島の図解民俗誌『南島雑話』に記録されている。著者の名越左源太(なごやさげんた)は薩摩藩の上流の武士で、藩のお家騒動に連座し、1850年から1855年まで小宿集落で流人として暮らした。
1852年、左源太は島の絵図や書き物をまとめる役目を命じられた。奄美市によれば、その記録は衣食住、生業、冠婚葬祭、信仰、習俗から動植物まで、島の姿を詳しく描いている。
県の黒糖のパンフレットは、『南島雑話』に、サトウキビを搾り、3つの鍋で煮詰めて黒糖を作る様子が描かれていると紹介している。パンフレットはまた、砂糖づくりは島第一の産業で、従事しない島民は一人もおらず、キビを管理する役人は九月から翌年二月まで昼夜見回ったという趣旨の文を挙げ、統制の厳しさを感じさせるとしている。
白糖づくりの試み
奄美市によれば、江戸時代の末期に黒糖の値段が下がると、薩摩藩は白糖の製造を計画した。藩は英国人の技師2人を招き、奄美大島の瀬留(せどめ)、金久(かねく)、須古(すこ)、久慈(くじ)の4か所に白糖工場を建てた。
工場は、台風の被害や燃料の薪の不足などのため、5年以内に閉鎖された。奄美市によれば跡地には耐火煉瓦や建築用の煉瓦の破片が残っており、県のパンフレットは、建物の切石が民家や奄美市立名瀬小学校の石段などに転用されたとしている。
藩がなくなった後
1871年に廃藩置県が行われたが、鹿児島県によれば、奄美は交通が不便なため、しばらく藩のころの制度のまま置かれた。奄美市によれば、薩摩藩の時代から続いた奄美への支配はそのまま引き継がれ、県は商社をつくって黒糖販売の独占を図った。
奄美市の年表には、1877年に砂糖の自由な売買を求める嘆願運動が起こり、代表55名が鹿児島へ赴いたことが記されている。市はまた、明治の中ごろから奄美は経済的に切り離されて「独立経済」となり、それが1940年まで続いたとしている。
行政分離と復帰運動
鹿児島県によれば、戦後の1946年(昭和21年)1月28日の連合軍最高司令部の覚書により、奄美群島は本土から行政的に切り離された。沖縄県公文書館は、マッカーサーが北緯30度以南の南西諸島を日本から分離すると決めた日を1月29日としている。2月2日からは沖縄に本部を置く米国軍政府の統治下に置かれ、本土との行き来も禁じられた。
県立奄美図書館によれば、生活に必要な物資が入らなくなり、食料不足はひどくなる一方だった。本土に仕事を求めて密航したり、黒糖を本土で売って食料を手に入れるために密航したりする人もいた。奄美市の年表は、1947年に集会・言論・出版の自由などが規制されたことも記録している。
1951年2月、奄美大島日本復帰協議会が結成され、詩人で元教師の泉芳朗(いずみほうろう)が議長となった。図書館によれば、泉は運動はあくまで平和主義・非暴力主義でいこうと訴えた。奄美市によれば、同年5月までに14歳以上の住民の99.8%が署名した。
1951年8月、泉は5日間の断食祈願を行い、島々の各地でも人々が集団で断食祈願をした。図書館によれば、この様子は「奄美のガンジー」として全国紙で大きく取り上げられた。しかし同年9月に調印された講和条約では、北緯29度以南はそのまま分離された。
泉は1952年に名瀬市長に選ばれた。1953年8月8日、アメリカのダレス国務長官は、奄美群島を日本に返還する用意があると声明した。同年12月24日に日米の協定が調印され、翌25日、奄美群島は日本に復帰した。
現在
奄美群島では12月25日が日本復帰記念日とされ、奄美市では毎年、市と民間団体による「日本復帰記念の日のつどい」が開かれている。国土交通省によれば、1954年に奄美群島の復興のための特別措置法が制定され、その後名称を変えながら延長されてきた。
訪れられる場所
奄美市名瀬の奄美市立奄美博物館は『南島雑話』の写本を保管しており、市の博物館のページでは、バッジや腕章など日本復帰運動の資料が紹介されている。県のパンフレットは、黒糖の歴史を学べる場所として、この博物館や笠利町の奄美市歴史民俗資料館、ほかの島々の資料館を挙げている。
おがみ山には、日本復帰の記念碑と泉芳朗の詩碑がある。開館時間などは、訪れる前に公式サイトで確認してほしい。
出典
- 奄美群島の概況 第1章 沿革Kagoshima Prefecture (Ōshima Branch Office)
- 黒糖の歴史(パンフレット)Kagoshima Prefecture
- 奄美の歴史③(放送原稿、2015年1月16日)Kagoshima Prefectural Amami Library
- 奄美群島の概要Ministry of Land, Infrastructure, Transport and Tourism
- 奄美群島復帰50周年記念郵便切手Japan Post
- 奄美群島日本復帰60周年Kagoshima Prefecture (Ōshima Branch Office)
- 奄美の歴史概要Amami City Board of Education (Cultural Properties Division)
- 奄美の歴史(年表)Amami City Board of Education (Cultural Properties Division)
- 奄美群島日本復帰関係Amami City (Amami Museum)
- 日本復帰運動(奄美博物館)Amami City (Amami Museum)
- 幕末・維新に大活躍(かごしまキッズサイト)Kagoshima Prefecture
- 浦添城跡Agency for Cultural Affairs (Cultural Heritage Online)
- 琉球王朝文化の華「琉球舞踊」(ぶんかる)Agency for Cultural Affairs
- 歴史概要(沖縄こどもランド)Okinawa Prefecture
- あの日の沖縄 1952年4月28日「対日平和条約」発効Okinawa Prefectural Archives
