金沢は、およそ300年にわたり、加賀藩主前田家の本拠だった。町の中心の金沢城は焼けては建て直され、その周りには寺院の町や茶屋町、職人の工房が育っていった。この記事では、1583年から今の復元整備までの金沢城の歩みと、象嵌(ぞうがん)など藩が育てた工芸をたどる。
前田家の前
石川県によれば、金沢城の地が歴史に初めて登場するのは、本願寺の末寺「金沢御堂(みどう)」としてである。天文15年(1546)に大坂本願寺10代の証如がこの地に創建したと伝えられる。周りには寺内町ができて多くの人が集まり、北陸の門徒の信仰の中心地となった。
県は、天正8年(1580)からの佐久間盛政を最初の金沢城主としている。盛政による城の整備は土塁や堀による守りが中心だったと推察されるものの、実際の姿は分かっていないという。
前田利家の入城
天正11年(1583)、前田利家は加賀のうち石川・河北の二郡を与えられた。利家は、1581年に織田信長から与えられていた能登の七尾から金沢城に移った。
利家は城と町の整備に取りかかった。天正14年(1586)から15年(1587)ごろに天守が建てられ、文禄元年(1592)には本丸周辺に高石垣が築かれ、大手口も付け替えられた。初期の金沢城を示す絵図や文献は極めて少ないが、今の城とはかなり違う曲輪の配置だったと推定されている。
観光庁の多言語解説文データベースに載る地域の協議会の解説によれば、加賀藩は1583年から1871年の廃藩置県まで、前田家の14人の藩主が治めた。同じ解説は、藩の領地が豊かな農業地帯で、前田家の収入は幕府に次ぐものだったとも書いている。
火災と再建をくり返した城
天守は、慶長7年(1602)10月晦日の落雷で炎上・焼失し、その後は再建されなかった。代わりに、物見を兼ねた三階櫓が建てられた。
寛永8年(1631)には城下で大火が起き、本丸御殿をはじめ城の中枢が焼けた。この後、3代藩主の前田利常は城の中心を本丸から二の丸に移し、広大な二の丸御殿を新たに建てた。県によれば、二の丸を中心とする城の縄張りはこのころまでに定まり、今に引き継がれている。
宝暦9年(1759)、城下町は未曾有の大火に見舞われた。武家屋敷・寺院・町屋あわせて一万軒以上が焼け、城も本丸・二の丸・三の丸などの主要な施設を全焼した。翌年から再建が始まり、今に残る石川門(重要文化財)は、この火災の後の天明8年(1788)に再建されたものである。
それからおよそ50年後の文化5年(1808)、12代藩主前田斉広(なりなが)の時代に二の丸で火災が起き、二の丸御殿や菱櫓などが再び全焼した。藩は財政難にあったが、家臣や領民からの献金や資材の提供を受け、およそ3年で再建した。
再建された御殿は焼ける前の姿を受け継ぎながら、2つの能舞台や、宝暦の火災の後に途絶えていた大広間を備えた、より大きなものとなり、廃藩まで残った。
県によれば、二の丸御殿は藩主の住まいであり政務の場で、城内で最大の建物だった。広さは約3,200坪、部屋は60を超えた。県は、金沢城は焼失と再建をくり返しながら、加賀藩の政治と文化の中心として城下町とともに発展し続けたとまとめている。
藩の工房「御細工所」
藩には自前の工房もあった。観光庁のデータベースの解説によれば、この工房はもともと武具の管理や修理を行う場所だった。利家は工房を続けるよう命じ、時がたつにつれて、職人たちの仕事はより芸術的なものへ移っていった。
同じ解説によれば、利常の時代に工房は正式に「御細工所(おさいくしょ)」となり、あらゆる分野の熟練した職人が採用された。象嵌や加賀蒔絵などの技術が花開き、発展する城下町金沢には全国から職人が集まった。
5代藩主の前田綱紀(1643〜1724)は、優れた技術を研究し職人の手本とするため、全国の工芸の見本を集めた大きなコレクション「百工比照(ひゃっこうひしょう)」をつくらせた。解説によれば、綱紀は職人を工房の近くに住まわせ、特に優れた作品をつくった職人には褒美を与えた。1800年代には70人以上の職人が働き、工房は250年以上続いた末に1868年に閉じられた。
この解説は、前田家が能や装飾美術、茶道に力を注いだことを、意図した政策として描いている。その説明では、富を軍事以外に使うことで、前田家は将軍からよく思われたという。また、加賀友禅などの工芸は、前田家に招かれて京都や江戸から金沢に移った職人たちによって確立されたとしている。
武具から輸出の工芸品へ
石川県は、こうした工芸の一つを詳しく説明している。加賀藩は細工所で金属象嵌の職人を育て、武具・調度・建具などに金工の装飾を施させた。
加賀象嵌は、鉄や銅などの地金の表面に模様を彫り、金や銀など種類の違う金属をはめ込む彫金の技術である。県は、精密な線象嵌と、色の違う金属を重ねてはめ込む華やかな鐙(あぶみ)象嵌の伝統、そしてはめ込んだ部分が簡単には外れない堅牢さを特色に挙げている。
県によれば、明治の初め、象嵌の職人たちは職を失った状態にあった。保護策として金沢銅器会社がつくられ、外国向けに象嵌の花瓶・香炉・置物を生産した。これがきっかけで技術は近代に受け継がれ、この時期から加賀象嵌は武具の装飾から工芸品の装飾へと移った。
城の周りの町
金沢市は、4つの歴史的な町並みを紹介している。東山ひがしの茶屋町が設けられたのは文政3年(1820)である。
天保2年(1831)にいったん廃止されたが、慶応3年(1867)に再び公認された。地区には、江戸時代後期から明治初期にかけての茶屋建築がまとまって残っている。
主計町(かずえまち)は、公式に許された茶屋町だったことはないが、市によれば、明治以降の資料から、実質的には茶屋町として成り立っていたことがうかがえるという。一階を出格子とし、背の高い二階をもつ茶屋建築が軒を連ねる町並みが特徴である。
卯辰山のふもとでは、寺町台・小立野台とともに、慶長から元和(1596〜1624)にかけて寺院群の建設が始まった。延宝(1673〜1681)までにはおおむね形ができたと考えられている。藩政期からの細い道や町割りは今も残る。寺町台でも、寺社や町家、藩政期以来の道や地割がよく残っている。
藩がなくなった後
明治2年(1869)の版籍奉還により、14代藩主の前田慶寧(よしやす)は二の丸御殿を出て、前田家による金沢城の歴史は幕を閉じた。明治4年(1871)の廃藩置県の後、城の地は兵部省(のちの陸軍省)の管轄となり、兵舎として使われた。
明治14年(1881)には失火で御殿や門、櫓のほとんどが失われた。今に残る金沢城の建物は、石川門、三十間長屋、土蔵(鶴丸倉庫)の3棟だけである。戦後の1949年からは金沢大学のキャンパスとなり、1996年、大学の移転に伴って石川県がこの地を取得した。
金沢城と城下町を訪ねる
金沢城公園は2001年に開園し、このとき菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓が復元された。城跡は2008年に国の史跡となり、その後も河北門(2010年)、鼠多門と鼠多門橋(2020年)が復元された。
2026年10月現在、公園は年中無休で開いている。石川県は二の丸御殿を伝統的な木造で復元する工事を進めており、2025年3月に起工式を行った。順調に進めば、玄関まわりの第1期工事は2033年度ごろに完了する予定だという。
東山ひがし・主計町・卯辰山麓・寺町台の4地区は、2001年から2012年にかけて国の重要伝統的建造物群保存地区に選ばれた。金沢市は、こうした歴史的な町並みが観光客に人気だとしている。開館時間などの最新の情報は、訪れる前に公式サイトで確かめてほしい。
出典
- 金沢城の歴史Ishikawa Prefecture
- 二の丸御殿の復元整備(金沢城公園)Ishikawa Prefecture (石川県金沢城・兼六園管理事務所)
- 公園の開園時間等(金沢城公園)Ishikawa Prefecture (石川県金沢城・兼六園管理事務所)
- 加賀の手漉和紙の製作用具及び民家・加賀象嵌製作用具・北陸地方の木地製作用具Ishikawa Prefecture
- Kaga Domain Workshop (Osaikusho) (Japan Tourism Agency multilingual commentary database)Ishikawa Crafts and Cultural Heritage Digital Contents Promotion Council (いしかわ工芸・文化財デジタルコンテンツ推進協議会), published in the Japan Tourism Agency multilingual commentary database
- Kaga Domain and the Maeda Family Cultural Policy (Japan Tourism Agency multilingual commentary database)Ishikawa Crafts and Cultural Heritage Digital Contents Promotion Council (いしかわ工芸・文化財デジタルコンテンツ推進協議会), published in the Japan Tourism Agency multilingual commentary database
- 金沢市東山ひがし・主計町・卯辰山麓・寺町台(石川県)保存地区の概要(重要伝統的建造物群保存地区)Kanazawa City (金沢市作成, published on the Agency for Cultural Affairs website)
