埼玉県の川越は、15世紀に築かれた城を中心に発展した町である。城はその後およそ4世紀のあいだに持ち主を替え、広げられ、新しい建物も建てられてきた。
その足もとでは商人の町が形づくられていった。この記事では、1457年の築城から今に残る御殿まで、そして江戸時代の町割りから蔵造りの町並みまでをたどる。
川越市は川越城跡を、中世後期には関東の覇権をかけて奪い合われ、近世には江戸に近い商都の象徴として重んじられた城の跡だと説明している。
武蔵をめぐる争いの中の城
川越市によれば、河越城(江戸時代以後は「川越城」と書く)は、扇谷上杉持朝の命を受けた家臣の太田道真・道灌父子らが、長禄元年(1457年)に築いたことに始まる。川越市立博物館は、より慎重に「築いたといわれています」と書いている。市の伝建地区の案内では、この父子を「江戸城を築いた」父子としている。
市は、築城の背景に地域の争いがあったとする。享徳3年(1454年)、鎌倉公方の足利成氏が関東管領の上杉憲忠を殺害し、その後の戦乱の中で下総の古河を居所とした。相模に拠点を置く持朝は、南関東の支配を固めるため、武蔵の中央にあたる河越の地に城を築いたと考えられている。
その後約80年間、河越城は扇谷上杉氏6代の居城となった。市によれば、このころの城は、堀をめぐらせた四角い屋敷(方形居館)がいくつか集まった姿だったと考えられている。
北条氏の城として
天文6年(1537年)、北条氏綱が河越を攻め、続く戦いで北条氏が勝利した。天文15年(1546年)には、俗に「河越夜戦」と呼ばれる戦いで、北条氏が両上杉氏と古河公方の軍勢の反撃を退けた。
それから50年あまり、河越城は北条氏の本拠・小田原城の支城となり、北条氏の武蔵支配の一翼を担った。市は、天正18年(1590年)に徳川家康が江戸に入るまで、この城が軍事・経済の両面で重きをなしたとしている。
江戸の北の守り
1590年に家康が関東に入ると、川越藩が置かれた。江戸時代に城は広げられ、市によれば、最も大きかったときの城域は約99,000坪(約326,000平方メートル)に及んだ。
川越市立博物館は、川越城が江戸の北の守りとして重んじられ、代々幕府の重臣が城主となったと説明している。市によれば、城主を務めたのは、大老や老中などの要職を兼ねる親藩・譜代の大名8家21人で、幕末・明治維新に至った。
城下町の町割り
今の町の骨組みは、ひとつの災害の後に整えられた。寛永15年(1638年)、川越大火で城と城下の大半が焼けた。その翌年、「知恵伊豆」と呼ばれた松平信綱が城主となり、復興にあたって町割りを行った。
市によれば、武家地は城の南北や、城下の出入口にあたる街道沿いに置かれた。町人地では「十ヵ町四門前」の仕組みが定められ、商人町の上五ヵ町、職人町の下五ヵ町、そして寺を中心とする四つの門前町で構成された。寺社は城下の北から西にかけて、町人地を外側から守るように意識して並べられ、外側の防御線となった。
道は、十字路のほか、丁字路やカギ型の曲がり角、袋小路を組み合わせて計画された。市は、この街路の形が今も色濃く残っているとしている。
1848年の御殿
今に残る城の建物は、築城よりずっと後のものである。川越市によれば、棟札の写しから、本丸御殿は松平斉典が城主だった嘉永元年(1848年)に完成したことが分かる。
御殿はもともと16棟、建坪1,025坪の規模だった。明治維新の後に少しずつ取り壊され、残っているのは玄関と大広間の部分だけである。
大きな唐破風のある玄関を上がると、36畳の大広間がある。市は、残された建物を近世の御殿建築として貴重なものとしている。
川越市の川越城跡のページには、本丸御殿が国内に2例しか残っていないものの一つだと書かれている。
御殿の隣には家老詰所がある。明治5年(1872年)に福岡村(今のふじみ野市)の星野家に払い下げられ、昭和63年度に元の位置から約40メートル東にずらして復元移築され、本丸御殿とつなげられた。市は、藩の政治を実際に支えた家老の部屋が残っている例は全国的に珍しいとしている。
川越城跡は1925年から埼玉県の史跡である。市は、本丸御殿と家老詰所のほかに、三芳野神社、土塁、富士見櫓跡、中の門跡と堀跡が残っているとしている。
蔵造りの町並み
市が川越を代表する歴史的景観とする蔵造りの町並みは、もうひとつの大火から生まれた。明治26年(1893年)の大火で、川越の町は3分の1以上が焼けた。
川越市立博物館によれば、川越の商人は江戸時代から、新河岸川の舟運などを通じた江戸との商いで富を蓄えていた。商人たちは、大火で焼け残ったのが外壁などの主な部分を土で塗り込めた、伝統的な工法の蔵造りの建物だったことに目を留め、競って蔵造りの店(店蔵)を建てた。
市によれば、手本としたのは、大火のとき表通りで唯一焼け残った大沢家住宅(1792年、今は国の重要文化財)だった。明治40年代(1907〜1912年)ごろまでに蔵造りの町並みができあがり、博物館によれば、最も多いときには100軒以上の蔵造りの建物が町に並んでいた。
ただし、商人たちは古い工法だけにこだわったわけではない。博物館は、レンガや大谷石、御影石といった新しい建築資材も取り入れられたと書いている。
1999年、この地区は国の重要伝統的建造物群保存地区に選ばれた。面積は約7.8ヘクタールで、市は2022年3月の時点で136件の伝統的建造物を特定している。市は、住民が主体となったまちづくりによって「小江戸」と呼ばれたにぎわいの面影が今に伝わっているとし、「時の鐘」を町のシンボルとしている。
川越を訪ねる
本丸御殿は川越市郭町にある。管理する川越市立博物館によれば、残っている玄関部分と、移築復元した家老詰所が公開されている。開館時間や入館料は、訪れる前に博物館の公式サイトで確かめてほしい。
伝統的建造物群保存地区は、北の札の辻交差点から南の仲町交差点までの範囲で、大沢家住宅や時の鐘も含まれる。地区内にある市の蔵造り資料館(1893年の大火の直後に建てられた店蔵)は、2026年10月にページを確認した時点では耐震化の工事のため休館していた。最新の状況は公式サイトで確かめてほしい。
出典
- 県指定記念物 川越城跡Kawagoe City
- 川越城本丸御殿とはKawagoe City Museum
- 川越市川越伝統的建造物群保存地区 伝建地区の概要Kawagoe City (Urban Landscape Division)
- 県指定有形文化財 川越城本丸御殿及び家老詰所Kawagoe City
- 開館時間・入館料金・休館日(川越城本丸御殿)Kawagoe City Museum
- 川越に蔵造りの町並みができるまでKawagoe City Museum
- 利用・交通のご案内(川越市蔵造り資料館)Kawagoe City Museum
- 蔵造り資料館Kawagoe City Museum
