倉敷では、柳の並ぶ運河沿いに白壁の商家や土蔵が軒を連ね、その間に紡績の時代の洋風建築が建つ。倉敷市によれば、この町の物語は、海を干拓した土地に植えられた綿から始まる。綿はやがて近代の紡績工場、学生服、ジーンズへとつながり、そこから生まれた富が、市が1969年から守ってきた町並みを形づくった。
この記事では、江戸時代の幕府直轄の商業の町から、「繊維のまち」への成長、そして町並みを守る取り組みまでをたどる。
海からできた土地と綿
倉敷市によれば、約400年前まで、今の倉敷市の平野部は「吉備の穴海」と呼ばれ、大小の島が点在する一面の海だった。高梁川が運ぶ土砂で海は少しずつ浅くなり、近世以降の干拓によって陸地に変わっていった。
干拓したばかりの土地は塩分が多く、米づくりには向かない。そこで塩分に強い綿やイグサが栽培され、市はこれを今の繊維産業の礎としている。
1642年、倉敷は幕府の直轄地、いわゆる「天領」となった。周辺の直轄領を治める政治の中心であると同時に、備中南部の物資が集まり送り出される中継地として発展した。江戸時代中期以降、干拓地では綿やイグサが換金作物として盛んに作られるようになった。
文化庁の日本遺産ポータルサイトに載る倉敷市の日本遺産のストーリーは、江戸時代後期の紀行文に、見渡す田地の過半に綿が植えられていると記されていることを紹介している。運河として使われた倉敷川の周辺は、綿などを扱う問屋や仲買人でにぎわった。
北前船の寄港地だった玉島や下津井の港町では、綿づくりの肥料となる干鰯やニシン粕が買われ、綿製品が積み出された。市によれば、玉島には最盛期に43軒もの問屋があり、200棟を超える土蔵が並んでいた。
倉敷川の商人の町
倉敷の人口は急速に増えた。市の美観地区の沿革によれば、元禄年間から文政年間までの約130年間に人口は2倍になり、有力な町人(商業地主)が現れた。
こうした繁栄の中から、美観地区を特徴づける町並みが生まれた。町家は本瓦葺きの塗屋造り、蔵は土蔵造りである。
倉敷窓や倉敷格子が特徴的で、市は白い漆喰仕上げとなまこ壁の対比も美しいとしている。市によれば、今残る建物の多くは、寛政年間(1789〜1801年)の豪商の商家を原型としている。
倉敷川沿いには、川港の繁栄を物語る荷揚げ場や路地の石畳、常夜灯などが、白壁の商家とともに今も残っている。
市によれば、1868年に代官所が廃止され、明治維新で社会が大きく変わると、町はかつてほどのにぎわいを失った。
紡績と「繊維のまち」
明治時代になると、政府は民間の紡績業の育成を奨励した。1881年、児島の下村紡績と玉島の玉島紡績が開業した。
市はこの2つを国内最初の民間紡績所としている。1889年には、イギリス式の最新の機械と工場施設を備えた倉敷紡績所(今のクラボウ)が、倉敷代官所の跡に創設された。
イグサで織った敷物も輸出品になった。1878年、茶屋町の磯崎眠亀が、精緻な文様を織り込んだ高級花莚「錦莞莚」を発明した。欧米をはじめとする海外への重要な輸出品に育ち、茶屋町は全国一の花莚の産地となった。
紡績、撚糸、織り、染色、縫製の技術は、足袋から学生服や作業着へと広がった。市によれば、大正時代以降に洋服が広まると学生服が急速に普及し、1955年には全国の学生服の7割を児島産が占めた。日本遺産のストーリーは、それより前の昭和初期について、9割という別の数字を挙げている。
市によれば、こうした縫製の技術を生かして、1965年に国内初のジーンズが生産され、児島は「国産ジーンズ発祥の地」と呼ばれるようになった。市は、倉敷が今、繊維製品の出荷額で日本一の「繊維のまち」になっているとしている。
大原孫三郎と大原美術館
倉敷紡績所は国内有数の紡績会社に成長した。社長を務めた大原孫三郎は、紡績で得た富をもとに、民藝運動への支援や農業研究所の設立など、文化・社会・福祉の事業に取り組んだ。赤レンガの紡績所や、ギリシャ神殿風の大原美術館などの洋風建築が、江戸時代の商家の間に建てられた。
大原美術館の歴史の説明は、ほかの事業も挙げている。孫三郎は1902年、昼間に働く人のための夜の学校を開き、同じ年に倉敷の人々のための日曜講演会を始めた。
講演会は23年間で76回開かれた。1914年には農業研究所を、1919年には大原社会問題研究所を設立した。
大原美術館は1930年、孫三郎が、前の年に亡くなった友人の画家、児島虎次郎を記念して設立した。美術館は、日本で最初の西洋美術中心の私立美術館としている。
孫三郎は虎次郎に三度のヨーロッパ行きを促し、虎次郎はそこでエル・グレコ、ゴーギャン、モネ、マティスなどの作品を選んだ。美術館によれば、これらは今もコレクションの中心となっている。
町並みを守る
市によれば、美術館などの洋風建築を建てた実業家の一族の中に、早くから町並みの大切さに目を向け、倉敷をドイツの歴史的な町ローテンブルクのようにしたいと考えた人物がいた。その時には実行できなかったが、この考えは後の文化人に大きな影響を与え、建築や民芸の立場からの戦後の保存活動につながった。
戦後、孫三郎の長男で倉敷絹織(今のクラレ)の社長だった大原總一郎の後押しもあり、1948年に町家再生の先駆けとなる倉敷民藝館が、1950年に倉敷考古館が設立された。1974年には、倉敷紡績の工場を再生して倉敷アイビースクエアが開業した。
昭和30年代後半、こうした先覚者が主導した活動は、行政と住民が主体となる取り組みへと広がった。市は1968年に伝統美観保存条例を定め、1969年には20.7ヘクタールを対象とする保存計画を告示し、倉敷川畔の特別美観地区などを指定した。
1979年5月21日、国はこのうち13.5ヘクタールを重要伝統的建造物群保存地区に選び、1998年には15ヘクタールに広げた。1979年度からは毎年、建物の保存修理が行われている。1990年には、市が全国に先駆けたとする背景保全条例が定められた。
訪れられる場所
倉敷美観地区は倉敷川沿いに広がり、川では観光客を乗せた舟が柳の間を行き交う。市が日本遺産のストーリーに挙げる場所には、大原美術館、旧大原家住宅、大橋家住宅、倉敷民藝館、倉敷考古館、倉敷アイビースクエア、倉紡記念館などがある。
開館時間は、それぞれの施設の公式サイトで確かめてほしい。大原美術館の開館時間や休館日は、美術館の公式サイトに載っている。
出典
- 一輪の綿花から始まる倉敷物語~和と洋が織りなす繊維のまち~Kurashiki City (Japan Heritage Promotion Office)
- 一輪の綿花から始まる倉敷物語(日本遺産ストーリー)Agency for Cultural Affairs (Japan Heritage portal)
- 美観地区の沿革Kurashiki City (Cultural Properties Division)
- 美観地区の保存の歩みKurashiki City
- 倉敷市倉敷川畔(岡山県)重要伝統的建造物群保存地区 紹介資料Kurashiki City (published by the Agency for Cultural Affairs)
- 美術館の歴史Ohara Museum of Art (official site)
