1586年、宣教師ルイス・フロイスは堺から瀬戸内海を西へ進む航海の途中、芸予諸島のある島について、そこには「日本最大の海賊」が住み、大きな城を構え、多くの部下や土地や船を持っていると書き残した。文化庁の日本遺産のストーリーは、この「海賊」こそが村上海賊だとしている。
「海賊」と聞くと、理不尽に船を襲って金品を奪う無法者、いわゆるパイレーツを思い浮かべるかもしれない。日本遺産のストーリーは、村上海賊をそれとは対照的な存在として描く。掟に従って航海の安全を保障し、瀬戸内海の交易や流通の秩序を支えることを生業とした人々だという。
古い本では「村上水軍」と呼ばれることも多い。今治市の村上海賊ミュージアムによれば、「水軍」は江戸時代以降に使われた呼び名で、明治から昭和の初めにかけては、近代海軍の前身とみる見方が強かったため、この名で呼ばれていた。しかし「水軍」では彼らの多様な活動を表せないため、最近では当時の古文書などに見える「海賊」という呼び名を使うことが多くなっているという。
潮の速い海と三つの家
芸予諸島は、広島県の尾道と愛媛県の今治のあいだで、瀬戸内海を南北に横切るように島々が密集して連なる。狭い海峡では、大潮のときに潮の満ち引きの高低差が3メートル以上になり、潮流は最大10ノット(時速約18キロ)に達する。「船に乗るより潮に乗れ」という、この地に古くから伝わる漁師たちの言葉が、それをよく表している。
村上海賊は、因島(今の広島県尾道市)、能島・来島(ともに愛媛県今治市)に本拠をおいた三家からなる。日本遺産のストーリーによれば、同じ村上の姓を名乗る三家は強い同族意識を持っていた。村上海賊ミュージアムは三家が連携と離反を繰り返したと説明し、山口県文書館は、実際にはそれぞれが独自に活動していたと述べている。
三家は、それぞれ別の航路を押さえた。因島村上氏は本州側の沿岸の航路、能島村上氏は芸予諸島の中央を通る最短の航路、来島村上氏は四国側の航路である。日本遺産のストーリーは、三家が連携して芸予諸島の全域を掌握したとしている。
村上海賊が歴史に姿を現すのは南北朝時代である。1349年の記録に「野嶋」(能島村上氏)の名が見え、東寺の荘園だった弓削島に入る幕府の船を警固する勢力として登場する。やがて因島村上氏が遣明船の警固を命じられるなど、三家は瀬戸内海の主な航路や港を押さえる大きな勢力へと育っていった。
海の上の城
日本遺産のストーリーは、フロイスの書いた「大きい城」を、村上海賊が築いた数多くの「海城」だとしている。多くの海城の岩礁には、潮の満ち引きに関係なく船をつなげるよう、陸から海に向かって柱が立ち並んでいた。海岸を埋め立てて造った平らな場所は、荷揚げや造船・修理に使われた。
海城は航路の要所に置かれて「海の関所」となり、村上海賊はこれによって瀬戸内海の東西の交通を支配した。
今治市がまとめた能島城跡の整備基本計画は、能島城を、14世紀中頃から後半以降に築かれ、16世紀末頃まで機能した「海城」で、小島全体を城にした造りだと説明している。1953年の国の史跡指定の説明文には、海岸の岩礁に残る多くの柱穴が記され、桟橋などの跡と認められている。発掘調査では、何度も建て替えられた建物の跡や、高級な中国陶磁器を含む暮らしの器、漁網に使う多数のおもりが見つかり、能島城が恒久的な生活の場だったことが分かった。
警固と水先案内と通行料
芸予諸島に近づいたフロイスの一行は、安全な通行を求めた。日本遺産のストーリーによれば、村上海賊は紋の入った絹の旗と署名を渡し、怪しい船に出会ったときに見せるよう告げた。のちに「過所船旗」と呼ばれる通行許可証である。
村上海賊は、この旗を配ったり、自分たちの者を船に乗せて水先案内をしたりして、ほかの海賊や航路の難所から船を守り、その代わりに通行料を取った。日本遺産のストーリーによれば、全盛期には、九州北部から畿内までの航路の主な港に、通行料を取る「札浦」が置かれた。
山口県文書館は、こうした旗の一つを展示したことがある。絹製で、中央に村上氏の旗印である「上」の字が大きく書かれ、旗を与えられた人として厳島神社の神官の名が記されている。
「天正玖年(1581)四月廿八」の日付と、能島村上氏の当主・村上武吉の署名がある。文書館は、現存するものは全国でも2例しか知られていないとしている。
文書館によれば、通行料を払った船には能島村上氏配下の海賊衆が乗り込み、目的地まで案内と警備をした(上乗り)。流通が盛んになって上乗りの需要に応えきれなくなると、その代わりに過所旗が出されたと考えられている。
文書館は別の面にも触れている。能島村上氏は、通行料を払わない者からは武力で積荷などを奪うこともあった。それは彼らにとっては権益を守るための当然の行為だったが、被害を受ける側から見れば、海賊行為以外の何物でもなかった。
戦国大名のはざまで
戦国時代になると、三家はそれぞれ陸の勢力と結びついた。村上海賊ミュージアムによれば、来島村上氏は伊予の守護・河野氏の重臣となり、因島村上氏は大内氏に仕え、のちに毛利氏の有力な海の勢力となった。能島村上氏は三家の中で最も独立性が強かったとされ、特に村上武吉の時代にその姿勢を貫いた。
山口県文書館の説明では、能島村上氏は瀬戸内海を囲む大名たちの領国に「札浦」を認められていたため、一方の大名に深く加担すれば、敵方の領国にある札浦を失うおそれがあった。そのため、陸の戦争に深入りすることを避け、どの大名とも友好関係を保とうとした。
それでも、海の戦いはあった。日本遺産のストーリーは、代表的な例として第一次木津川口合戦を挙げる。
毛利輝元が、織田信長と対立する石山本願寺へ兵糧を運び込もうとしたとき、毛利軍の主力だった村上三家は「ほうろく火矢」という火薬を使った武器で信長方の船団を破り、兵糧を運び入れた。この後、信長や羽柴(のちの豊臣)秀吉は、村上海賊を味方に引き入れようとした。
終わりは陸からやって来た。山口県文書館によれば、豊臣秀吉が長崎を直轄にし、長崎から畿内までの安全で自由な海上輸送を保障しようとしたとき、能島村上氏は排除され、その基盤はいわゆる「海賊禁止令」によって失われた。今治市教育委員会が2020年に定めた保存活用計画は、この禁止令を1588年としている。
今治市の計画は、能島城が使われた時期の終わりを1587年頃としている。毛利氏の家臣となる以前の、1599年(慶長4年)までの村上家の文書は、2015年に国の重要文化財に指定された。
戦うだけではない顔
村上海賊は交易にも関わった。能島城のすぐ近くの見近島は、中国産の貿易陶磁器や備前焼を一時的に保管する物流の基地だった。
日本遺産のストーリーは、村上海賊を、大名と同じように茶や香をたしなむ文化人としても描く。武将たちは連歌を詠み、大三島の大山祇神社に奉納して武運を祈った。
因島には、武運を祈り、戦勝を祝って踊ったとされる「椋浦の法楽おどり」が今に伝わっている。村上海賊には漁業者としての顔もあった。
2016年、村上海賊の物語は日本遺産に認定され、今治市と尾道市の関係団体でつくる協議会がその魅力を発信している。
訪れられる場所
今治市の村上海賊ミュージアムは、2004年に大島の宮窪に開館した。能島村上家に伝わり修復された甲冑や、村上武吉・景親親子が着用したと伝わる陣羽織、能島城跡からの出土品などを展示し、展望室からは能島城跡を望むことができる。開館時間や観覧料は公式サイトで確認してほしい。
能島は無人島で、定期航路はない。今治市の計画によれば、上陸するには市が主催する催しに参加するか、上陸と潮流のクルーズを利用するか、船をチャーターする方法がある。
今治市の修学旅行向けの案内にも能島の上陸の体験が載っている。訪れる前に、ミュージアムなどで最新の情報を確認してほしい。
出典
- “日本最大の海賊”の本拠地:芸予諸島 -よみがえる村上海賊“Murakami KAIZOKU”の記憶-(日本遺産ストーリー)Agency for Cultural Affairs (Japan Heritage portal)
- 村上海賊魅力発信推進協議会Imabari City
- 能島城跡Agency for Cultural Affairs (Cultural Heritage Online)
- 史跡能島城跡整備基本計画 第3章Imabari City
- 施設について(村上海賊ミュージアム)Murakami Kaizoku Museum (今治市村上海賊ミュージアム), Imabari City
- 館内案内(村上海賊ミュージアム)Murakami Kaizoku Museum (今治市村上海賊ミュージアム), Imabari City
- アーカイブズ展示 解説シート(第12回中国四国地区アーカイブズウィーク「その記録と記憶」)Yamaguchi Prefectural Archives (山口県文書館)
- 史跡能島城跡 保存活用計画 第3章 史跡の概要Imabari City Board of Education
- 今治市 修学旅行・教育旅行ガイド(パンフレット)Imabari City (tourism section)
