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宮城県 · 古代

Tagajō: The Ancient State and Tohoku

多賀城―古代国家と東北

724年、仙台湾を望む丘に置かれた多賀城は、古代国家が東北を治めるための政治と軍事の拠点だった。朝廷が「蝦夷」と呼んだ人びととの争い・交渉・交易の舞台でもあった。

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冬の薄曇りの空の下、広い舗装された参道から見た多賀城の復元された二階建ての南門。朱色の柱と白壁、灰色の瓦屋根を持ち、左右に屋根付きの長い築地塀が延びている
復元された多賀城の南門(2025年12月撮影)。掬茶, 2025-12-21 · Wikimedia Commons · Creative Commons Attribution-ShareAlike 4.0 International · 出典 · 縮小して掲載

仙台湾と仙台平野を一望できる丘の上に、奈良・平安時代の陸奥国の国府、多賀城があった。宮城県によれば、多賀城は724年に創建され、陸奥国の行政の中心地だった。

奈良時代には軍事を担う鎮守府も置かれていた。宮城県の整備計画は、多賀城を古代国家による東北支配の政治的・軍事的な中心と位置づけている。

この記事では、多賀城とはどのような場所だったのか、発掘調査で何が分かってきたのか、そして朝廷の記録が「蝦夷(エミシ)」と呼んだ人びととの関わりを見ていく。

丘の上の役所

外郭南門を入ってすぐの所に立つ多賀城碑には、神亀元年(724)に大野東人が多賀城を創建したと記されている。宮城県によれば、この碑は天平宝字6年(762)に藤原朝獦が多賀城を大きく改修したことを記念して建てられたとみられる。

碑には、多賀城から京・蝦夷国・常陸国などまでの距離も刻まれている。県は、これらが他の文献にはない貴重な情報を伝えているとしている。

外側の区画は一辺1km前後のいびつな四角形で、塀で囲まれ、南・東・西に門が開いていた(北門は確認されていない)。ほぼ中央には、重要な政務や儀式、宴会が行われた政庁があった。

政庁は東西103m、南北116mの範囲を築地塀で囲み、内部に正殿や脇殿などの建物を計画的に配置していた。城内の各所には、実際の事務を行う役所や兵士の住まいが置かれていた。

外側の塀の高さは4〜5mほどだった。南辺の築地塀のそばからは「大垣」と墨で書かれた土器が見つかり、都の平城京と同じく、多賀城でも塀が大垣と呼ばれていたことが分かった。

4つの時期

宮城県によれば、発掘調査の結果、政庁には4つの時期の移り変わりがあったことが分かっている。第1期は大野東人による創建、第2期は762年の大改修である。

第3期は、宝亀11年(780)の伊治公呰麻呂の乱による焼き討ちからの復旧、第4期は貞観11年(869)の陸奥国の大地震からの復興である。多賀城の終わりは11世紀前半ごろと推定されている。

役所の多くは第3期にできたり整え直されたりしており、県は平安時代に体制が充実したことを示すとみている。南門から政庁までは直線の道路が通り、多賀城のメインストリートだった。この道は平安時代にさらに広げられた。

城の外には付属の寺院があり、9世紀には100mごとに道を通した碁盤の目状の町並みが整えられた。東北歴史博物館によれば、区画には国司など上級役人の広い邸宅や、多賀城を支えて働く多くの人びとの住まいがあった。

出土品が語ること

多賀城から出土した品々は、そこで行われていた仕事を具体的に伝えてくれる。役人は硯や刀子を使い、石帯や帯金具のついた服を身につけ、上級役人は中国の青磁や白磁なども持っていたとみられる。

兵士が使った鉄刀や鉄鏃、鎧の小札も出土している。宮城県は、これらの出土品が、陸奥国府であり、同時に軍事的な役割をもつ城柵でもあった多賀城の性格を示しているとしている。

創建1300年の節目にあたる2024年、多賀城碑は国宝に、多賀城跡などから出土した1794点は国の重要文化財に指定された。

「蝦夷」と呼ばれた人びと

蝦夷とはどのような人びとだったのか。東北歴史博物館は、約1300年前の東北には、律令国家の支配に属さない「蝦夷(エミシ)」と呼ばれた人びとが暮らしていたと説明する。律令国家の歴史書には、蝦夷が反乱をくり返し、天皇を中心とする強大な国家がそれを征討する様子が書かれている。

一方で同館によれば、発掘調査からは律令国家との活発な交流の様子も分かってきた。最近の研究では、律令国家の人びととあまり変わらない暮らしを営みながら、墓のあり方では一線を画すなど、蝦夷の多様な暮らしと文化が明らかになりつつある。

『青森県史』は、「蝦夷」という言葉が決して固定したものではなかったことを強調している。言葉にこめられた意味合いも、主にどの地域の人びとを指すかも時代によって異なり、その基本的な意味は、国家の直接支配の外にいる住民だった。

7世紀半ばの大化改新の後、朝廷は蝦夷の地に城柵を設け、その地域を直接の支配に組み込んでいった。9世紀初めまでに、おおよそ現在の盛岡市と秋田市を結ぶ線より南が直轄の支配地となった。奈良時代の末までに組み込まれた宮城県域や山形県域は、しだいに蝦夷の世界とはみなされなくなった。

武力・交渉・交易

国家と蝦夷の関係は、戦いだけではなかった。『青森県史』によれば、陸奥国と出羽国の国司には、一般の地方行政に加えて、征討・斥候(情勢の把握)・饗給という三つの任務があった。

饗給とは、主に城柵で蝦夷の族長たちを招いて宴を開き、位階や称号を授け、鉄製品や繊維製品などを与えることである。族長の側にとっても、こうした品々や称号は自らの権威を確かなものにする手段になりえた。

関係は時とともに変わった。宝亀7・8年(776・777)には、外従五位下の位をもつ伊治公呰麻呂が率いる伊治村の人びとが、政府側について志波村を攻めた。ところが宝亀11年(780)、呰麻呂自身が政府に対して兵を挙げ、多賀城は焼き討ちにあった。

蝦夷の集団どうしも互いに争っていた。『青森県史』は、朝廷がこの対立を「夷を以て夷を制する」政策に利用して影響力を強めたこと、それが集団内の族長たちの主導権争いをいっそう激しくした可能性もあることを述べている。

交易のあり方も変わっていった。はじめは貢ぎ物に対して品物を与える形だったが、しだいに商業的な交易へと変わっていった。同書によれば、平安時代には東北に赴任した役人が自らの利益のために、蝦夷に不公正な交易を強いた。

多賀城跡を訪ねる

多賀城跡は大正11年(1922)に国の史跡に、昭和41年(1966)に特別史跡に指定されており、多賀城市が管理団体となっている。市は、特別史跡多賀城跡、多賀城碑、多賀城廃寺跡を訪ねることを勧めている。

南門は復元されている。復元工事の完了に合わせて2025年4月には入場無料のガイダンス施設が開館し、古代の多賀城や出土品を映像やデジタル展示で紹介している。

多賀城市は、多賀城跡とあわせて東北歴史博物館を見学することも勧めている。開館時間や休館日は、訪れる前に各公式サイトで確認してほしい。

出典

  1. 多賀城跡Miyagi Prefecture, Tagajo archaeological research office
  2. 多賀城跡の出土遺物Miyagi Prefecture, Tagajo archaeological research office
  3. 特別史跡多賀城跡附寺跡整備基本計画Miyagi Prefecture
  4. 蝦夷と律令国家Tohoku History Museum
  5. 県史テキストデータベース — 3古代の蝦夷社会Aomori Prefectural History
  6. 多賀城跡解説/周辺敷地図Tohoku History Museum
  7. 多賀城跡ガイダンス施設Tagajo City
  8. 多賀城市の観光Tagajo City