富山の商人たちは、およそ300年にわたって、全国の家々に薬を届けてきた。薬を置いていくときには代金を受け取らない。しばらくしてまた訪ね、その家で使われた分を確かめて、その分だけ代金を受け取るのである。
富山県は、この家庭薬配置業を、江戸時代から続く伝統産業であり、「先用後利」という独特の商法で知られると説明している。県によれば、この商いは全国、さらに遠く海外にまで広がった。
どの家にも薬箱を
富山県は、この仕組みを5つの段階で説明している。まず配置販売業者が家庭を訪ね、「配置箱」に薬を入れて、家庭の常備薬として預ける。家の人は、必要なときに必要な薬を使う。
業者は一定の期間ごとに再び訪れ、どれだけ使われたかを調べて薬を補充する。代金を請求するのはそのあとで、使った分だけである。県は、富山の薬業はこの考え方を大切にして発展してきたとしている。
富山市も同じ方法を紹介している。先に薬を家庭に預けておき、あとで使った分の代金をもらう。市によれば、こうして富山の薬は長い間、全国の家庭で使われてきた。
始まりの物語と反魂丹
始まりはどうだったのか。富山県は、配置薬業の起源は「一般的に」富山藩2代藩主・前田正甫(まさとし)の功績として伝えられているとする。それによると正甫は1683年、岡山の医師・万代常閑(まんだいじょうかん)から「反魂丹(はんごんたん)」の処方を伝授されたという。
話は1690年に続く。江戸城内で腹痛を起こした大名に正甫が反魂丹を与えると、すぐに治った。これを見た諸藩の藩主が、反魂丹を売り広めるよう頼んだ。
これが富山の配置薬業の始まり「とされる」。富山市も、正甫が藩の産業として奨励したことから始まったと伝えられている、と記している。
県はこれを言い伝えとして示しており、県自身が編んだ歴史書は別の面も伝えている。1987年に刊行された『富山県薬業史 通史』によれば、富山の売薬商人が全国に持ち歩いた代表的な薬は反魂丹であった。明治時代までは「反魂丹売り」とも呼ばれていたという。
ただし同書は、反魂丹がもともと富山独自の薬ではなかったことも記している。その名は古い書物にすでに見え、江戸時代の江戸の買い物案内には、反魂丹を売る江戸の店が5軒載っている。
のちの藩主も薬に関心を寄せた。富山市によれば、10代藩主・前田利保(としやす、1800〜1859)は自ら本草学を研究し、『本草通串』92巻を著した。
帳面と組、そして長い旅
『富山県薬業史』は、商いの仕組みも詳しく伝えている。売薬商人は、春と秋の年2回行商するのが建て前であった。県によれば、交通手段のない時代、彼らは柳行李(やなぎごうり)に薬を入れて背負い、歩いて全国を回った。
商いの要は「懸場帳(かけばちょう)」である。行商する地域ごとに作る帳面で、得意先ごとに口座を設け、訪ねた年月日、置いた薬の名前と数量、その価格、支払いを書き込む。付近の略図を書き入れたものもあった。
同書によれば、帳面をめくれば得意先の家族や家の様子まで思い出すことができ、迷わず得意先を回り、次の行商までに使われる薬の種類と量を見込むのに役立った。懸場帳は「のれん」のような価値をもち、売買され、相続された。
明治時代には、懸場帳を担保にお金を借りることもできたという。同書は、第百二十三国立銀行(現在の北陸銀行)の例を挙げている。行商は「組」にも分かれており、組はそれぞれ広い地域を受け持った。
同書によると、組ができたのは明和年間(1764〜1772)ごろといわれ、最初は18組、文化年間には20組、安政期(1854〜1860)には22組になった。1853年(嘉永6年)の帳簿では、最も多い関東組が381人、次いで五畿内組が261人であった。少ない組には、薩摩組26人、秋田組21人、飛州組18人などがあった。
藩の境を越えて
同書は、江戸時代に他藩へ行くことは「他国に出ること」であったと書く。富山の売薬商人は旅先の藩で外国の商人のように扱われ、商いをするにはその藩の許しを得る必要があった。そのために、藩への献金や献上品も欠かせなかった。
江戸時代の後半になると、多くの藩が外からの品物を抑えようとし、売薬商人はたびたび営業を差し止められた。南の端にある薩摩藩は、とりわけ外からの人と物に厳しかった。
同書によれば、26人の薩摩組は、日本の北の端・松前の昆布を薩摩へ送ることで、この壁を乗り越えた。同書はこれを「驚くべき雄大な範囲の貿易」と呼んでいる。
売薬商人は、得意先の人々との信頼関係も大切にした。県によれば、娯楽の少ない時代、彼らは売薬版画や紙風船をお土産として持って行った。文化庁は、越中富山の売薬が江戸時代後期ごろから、独特の行商による売薬方法で全国に知られるようになったとしている。
明治から今日へ
明治維新のあと西洋の学問が急速に広まり、漢方薬を中心とする売薬は厳しい批判を受けた。『富山県薬業史』は、その代表として福沢諭吉を挙げる。1879年(明治12年)8月に刊行された文集に収められた福沢の「売薬論」は、初めから売薬に否定的な態度をとっていた。
それでも同書によれば、売薬業は明治時代にいっそう発展し、富山は「わが国第一の売薬業」の名を冠せられるまでになった。同書の表では、全国の売薬税に占める富山県の割合は、1883年(明治16年)には18.1%、1887年(明治20年)には25.8%であった。
県によれば、薬業で蓄えた資本によって銀行や電力会社がつくられた。人づくりも重んじられた。約300年前には行商に必要な知識を学ぶ寺子屋が広まり、約100年前には薬学校(現在の富山大学)が創設された。
県の2026年の案内は、今の富山の薬業の姿も伝えている。県内には医薬品メーカー約80社と100を超える製造所がある。2024年(令和6年)の全国の配置用医薬品の生産金額は20.9億円で、富山県はその約6割を占めた。
2007年(平成19年)7月には、富山県薬業連合会が申請していた団体商標「富山のくすり」が登録査定を受けた。県は、配置薬が今も全国で使われ、家庭だけでなく事務所でも活躍しているとしている。
富山の売薬の歴史を訪ねる
1981年、富山の売薬に使われた用具1,818点が、国の重要有形民俗文化財「富山の売薬用具」に指定された。富山市安養坊の富山市民俗民芸村にあり、製薬の道具、行商や旅の道具、懸場帳、柳行李、旅の安全を願って持ち歩いた懐中仏などが含まれる。
県の2026年の案内は、この歴史に触れられる施設を紹介している。富山市安養坊の富山市売薬資料館では、行商用具や製薬に使われた道具、売薬版画などの土産品が展示されている。
富山県民会館分館の金岡邸では、売薬業に関する資料が展示されている。母屋は明治初期の商家で、薬種商の店舗の跡をとどめている。売薬の盛んな地域である滑川市の滑川市立博物館でも、薬業の資料が展示されている。
富山市の中心部では、富山城址公園に前田正甫の像が、富山駅南口には「富山のくすりやさん」のシンボルモニュメントがある。開館日や開館時間は変わることがあるため、出かける前に各施設の公式サイトで確かめてほしい。
出典
- 富山県薬業史Toyama Prefecture
- くすりの富山県(PHARMACEUTICAL INDUSTRY IN TOYAMA)令和8年5月版富山県厚生部くすり振興課(Toyama Prefecture)
- 富山県薬業史 通史 第一章 富山売薬業の形成富山県(Toyama Prefecture; 監修 植村元覚)
- 富山県薬業史 通史 第二章 江戸時代の富山売薬業(第一~三節)富山県(Toyama Prefecture; 監修 植村元覚)
- 富山県薬業史 通史 第二章 江戸時代の富山売薬業(第四~六節)富山県(Toyama Prefecture; 監修 植村元覚)
- 富山県薬業史 通史 第三章 明治時代の富山売薬業富山県(Toyama Prefecture; 監修 植村元覚)
- 富山の売薬用具(文化遺産オンライン/国指定文化財等データベース)文化庁(Agency for Cultural Affairs)
- とやまの和漢薬情報(富山の家庭薬の伝統・由来の解説/家伝薬の紹介)富山市(Toyama City, 商工労働部コンベンション・薬業物産課)
