Japan Through Time

群馬県 · 明治時代

Women Workers at Tomioka: Learning Silk Reeling in Meiji Japan

富岡製糸場で働いた女性たち

1872年に操業を始めた官営の富岡製糸場では、全国から集められた女性たちが器械製糸を学び、その一部は技術を故郷へ持ち帰った。

約7分 · 出典 8件

1872年、現在の群馬県富岡で大きな製糸場が動き始めた。成立まもない明治政府が建てた、器械製糸の官営模範工場である。製糸とは、繭から生糸を引き出す作業をいう。

技術は西洋のものだったが、糸を引いたのは全国から集められた女性たちだった。製糸場の公式サイトによれば、彼女たちは新しい技術を学び、故郷に戻ってそれを教えることを期待されていた。

伝習工女を必要とした模範工場

開国後の日本で最大の輸出品は生糸だった。需要が急に高まった結果、質の悪い生糸が大量につくられるようになった。1870年、明治政府は品質の改善と生産の向上のため、自らの手で官営の模範器械製糸場をつくることを決めた。

基本の考え方は3つあった。洋式の製糸技術を取り入れること、外国人を指導者とすること、そして全国から工女を募集し、伝習を終えた工女が出身地に戻って器械製糸の指導者になることである。指導者には、横浜で生糸検査人をしていたフランス人ポール・ブリュナが迎えられた。

建設は1871年に始まり、翌1872年に主な建物が完成して操業が始まった。繰糸所は長さ約140mで、300釜の繰糸器が並んだ。

公式サイトは、当時の製糸工場として世界最大規模だったとしている。初めはフランス人を10名ほど雇っていた。

山田盛太郎は1934年の著書で、1872年の富岡製糸場の職工462人のうち、繰糸工が300人、64%を占めたと記している。この数字は、榎一江が2022年に富岡製糸場の女性労働を論じた論文で引用している。

富岡に来たのはどんな人たちか

榎によれば、政府は15歳から30歳の女性を「伝習工女」として募集した。実際には10代初めの者もおり、60歳前後の女性が取締役として入場することもあった。

榎は、初めのころの伝習工女の多くは士族の娘で、出身地は九州から北海道まで幅広かったと書く。彼女たちは新しい技術を学んで地元に持ち帰るために派遣されたのであり、「労働者」として富岡に来たわけではなかった、というのが榎の見方である。

山本眞一は1982年の論文で、連れて行かれた娘は外国人に血を吸われるという風評があったため、工女の募集は困難を極めたと述べている。

伝習工女の一人は、自身の書いたものによって名前が知られている。横田英、のちの和田英である。1857年に松代藩士の娘として生まれ、長野県立歴史館によれば、父の説得に応じて富岡へ向かった。

回想録の版元によれば、英は1873年4月、松代の女子15名とともに故郷を出発した。

給料・労働時間・休日

山本が『富岡製糸場誌』(富岡市教育委員会、1977年)から転載した1872年の給料表には、工女の給料が記されている。一等工女は年に25円、二等は18円、三等は12円、等外は9円である。

これは年額で、月割りで支払われた。このほかに一人あたり5円が夏冬の服料として与えられ、毎日の賄料も定められていた。

当時の製糸は季節の仕事で、多くの製糸工場は1年のうち数か月しか操業しなかった。これに対して富岡製糸場は、初めから通年での操業が計画されていた。

榎によれば、通年操業を前提に1日の労働時間は比較的短く、毎週日曜日が休みで、賃金は等級にもとづく月給だった。これは、のちに製糸業に広まる競争的な「等級賃金制」とはまったく異なるものだったと榎は強調する。

ただし、製糸場として採算が問われるようになると、労働時間が延びることもあったという。

榎は、官営初期の富岡の労働条件は当時の製糸業一般とはまったく異なっていたとする。また、器械製糸の中心地となった長野県諏訪郡では、等級賃金制による激しい競争と長時間労働で生産を伸ばしたと書く。製糸業全体では、労働時間は1日13〜14時間、ときに17〜18時間に及んだという。

寒い夜と夏の病人

日々の暮らしについての手がかりの多くは、和田英の『富岡日記』にある。題名は日記だが、内容は回想である。版元によれば、英は明治40年(1907年)ごろ、50歳のときに病気の母を慰めるために書き始め、富岡での1年数か月をふり返った。

製糸場の公式サイトは、当時の富岡製糸場の様子を知る貴重な資料としている。

富岡市が刊行した報告書で、鈴木淳はその回想を二つ引いている。1873年から翌年にかけての冬について、英は、部屋には土焼きの火鉢があり、夜具は一人に四巾布団が2枚渡されていたと書く。それでもなかなか寒く、二人ずつ一緒に寝たという。

1873年の夏については、暑さが強まるにつれて病人がたくさん出たと書く。洋医は、大勢を部屋に閉じ込めておくから病気になるのだと言い、夕方から夜8時半ごろまで広場に出て運動させるよう指示した。それからは毎夕、広場に出て遊ぶようになったという。

鈴木は、作業場の暑さよりも、寄宿舎の環境や生活習慣のほうが健康を害すると受け止められていたと読む。また、英が繰糸所の暑さや寒さには触れていないことも指摘している。

技術を故郷へ

英はその後、模範工場の構想が伝習工女に期待したとおり、教える側に回った。版元によれば、英は1874年7月に帰郷し、8月から長野県西条村の製糸場(のちの六工社)で技術教師となった。

1878年には、新しく操業した県営長野県製糸場の製糸教授に任じられた。長野県立歴史館は、英が六工製糸場をはじめとする県内の製糸場で技術指導の中心となって活躍したと紹介している。

富岡製糸場自体も変わっていった。公式サイトによれば、外国人指導者が去った1876年以降は日本人だけで操業した。官営期の経営は、必ずしも黒字ばかりではなかった。

当初の目的が果たされたころの1893年、製糸場は三井家に払い下げられた。1902年に原合名会社へ、1939年に片倉製糸紡績へ移り、1987年3月に操業を停止した。

榎によれば、基本的な労働条件は民営化後も引き継がれ、1895年の京都府知事らによる視察の記録には、寄宿工女のための冬の夜学も記されている。一方、1896年に支配人となった藤原銀次郎の改革で、繰糸工女らの賃金は等級にもとづく月給制から、繰糸の量に応じた請負制に改められた。

榎が紹介する記録によれば、この改革に対し、1898年2月9日、富岡製糸場の通勤工女743人が、食費節約・休日削減・日給制廃止などに反対してストライキをおこした。ストライキは2月15日、職工側の敗北に終わった。

富岡の女性たちをどう伝えるか

公式サイトによれば、操業停止後も片倉工業がほとんどの建物を保管した。2005年に国の史跡となり、2014年6月には世界遺産委員会で「富岡製糸場と絹産業遺産群」が世界遺産一覧表に記載された。同年12月には、繰糸所と東西の置繭所が国宝になった。

この世界遺産は群馬県内の4か所からなる。製糸場と、蚕の飼育や蚕種の保存にかかわる3つの場所である。

働いた女性たち自身も、新しい研究の対象になっている。公式サイトによれば、富岡市は世界遺産委員会の諮問機関イコモスの勧告に応えて、2017年度に女性労働者の技術移転や労働環境を調べる委員会を設けた。その報告書には、上に引いた鈴木の論考も収められている。

解釈が分かれる

近代日本の女性工場労働者全体をどう描くかには、今も議論がある。「女工哀史」という言葉は、紡績工場の女性を描いた1925年の本から生まれ、戦前の女性工場労働者を象徴する言葉になった。

解釈が分かれる

榎は、経済史研究では紡績業・製糸業・織物業を厳密に区別してきたと指摘する。また、サンドラ・シャールが主に大正から昭和初期に製糸工場で働いた女性たちの声を集め、彼女たちが「女工哀史」とは無縁の世界を生きていたことを描き出したと紹介している。

富岡製糸場を訪ねる

富岡製糸場は一般に公開されている。公式サイトによれば、見学は建物の外観が中心なので、雨具の用意を呼びかけている。

解説員による有料のガイドツアー(約40分)がある。スマートフォン用の無料音声ガイドアプリは、日本語・英語・中国語・フランス語・韓国語に対応している。

西置繭所は足かけ6年の保存整備工事を経て2020年に再び公開され、ガラス張りの新しい空間にギャラリーが設けられた。開場時間や見学料は、出かける前に公式サイトで確かめてほしい。

出典

  1. 歴史の概要(富岡製糸場を知る)Tomioka City / Tomioka City Tourism Association (official Tomioka Silk Mill website)
  2. ご利用案内(ガイドツアー)Tomioka City / Tomioka City Tourism Association (official Tomioka Silk Mill website)
  3. 富岡製糸場と絹産業遺産群の概要Gunma Prefecture
  4. 日本資本主義と女性労働 : 富岡製糸場の事例から法政大学経済学部学会
  5. 明治初期の家計補助的女子賃金島根大学教育学部
  6. 富岡製糸場女性労働環境等研究委員会報告書2富岡市
  7. 和田 英 ~糸づくりに懸けた明治の女性~長野県立歴史館
  8. 富岡日記(大人の本棚)みすず書房