紀元前5世紀ごろから紀元3世紀ごろまで続いた弥生時代を、吉野ヶ里歴史公園は、日本で稲作の文化が始まり、定住の文化が根付いた時代と説明している。公園は、この時代の遺跡の中でも、佐賀県の吉野ヶ里遺跡を学術的価値のきわめて高い遺跡としている。
約700年のあいだに、丘の上に点在した小さなムラは、深い壕に囲まれた大きな集落へと育っていった。吉野ヶ里では弥生時代のすべての時期の遺構や遺物が見つかっており、社会がどのように変わっていったかを順を追って知ることができる。この記事では、1980年代の再発見から集落の発展と終わり、そして今の歴史公園までをたどる。
よみがえった遺跡
吉野ヶ里遺跡は、脊振山地の南のふもとから佐賀平野へ向かってのびる、帯のように細長い段丘の上にある。遺跡は今の神埼市と吉野ヶ里町にまたがる。公園は、これを日本最大の遺跡と紹介している。
この地に貴重な遺跡が眠っていることは研究者の間で古くから知られ、1934年(昭和9年)にはすでに吉野ヶ里を取り上げた報告が出ていた。転機は工業開発の計画だった。
1982年(昭和57年)2月、吉野ヶ里の段丘一帯が、佐賀県の工業団地の最有力候補地に内定した。確認調査の結果、約58.3ヘクタールに埋蔵文化財があることが分かった。
工業団地は当初の約80ヘクタールから67.7ヘクタールに縮小され、6ヘクタールを文化財を守る緑地とし、30ヘクタールは発掘調査をして記録を残すことになった。本格的な発掘が始まったのは1986年(昭和61年)5月下旬である。
公園によれば、この調査で、吉野ヶ里が日本の弥生時代で最大規模の環壕集落であることが確かめられた。魏志倭人伝に記された邪馬台国の様子を思わせる建物跡なども見つかり、一躍全国の注目を集めた。
吉野ヶ里遺跡は1990年(平成2年)、弥生時代の有力な首長層の成長や「国」の形成を考えるうえで欠くことのできない大規模な環濠集落として、国の史跡に指定された(文化庁の文化遺産データベースによる)。その後の佐賀県教育委員会の確認調査で、集落は南北約1キロメートル、東西約600メートル、面積約40ヘクタールに及ぶことが分かった。弥生時代の前期から後期にかけての集落と墓の移り変わりが明らかになったことから、1991年(平成3年)には特別史跡に指定された。
ムラからクニへ
公園は、吉野ヶ里の歩みを三つの段階に分けて説明している。弥生時代前期(紀元前5〜前2世紀)には、丘陵一帯に小さなムラが分かれて生まれた。
やがて丘の南側に環壕をもつ集落が現れる。公園はここに、「ムラ」から「クニ」へと発展する兆しを見ている。
1999年(平成11年)の発掘では、丘の南端で、吉野ヶ里で最も古い環壕らしい跡の一部が見つかった。この集落は弥生時代前期のうちに約2.5ヘクタールの環壕集落へと育った。
壕の中からは土器や石器、有明海の貝殻、動物の骨のほか、青銅器の鋳造に使ったふいごの羽口や取り瓶も出土している。公園は、弥生時代前期のうちに青銅器づくりが始まったと考えている。
弥生時代中期(紀元前2〜紀元1世紀)には、南の丘陵をぐるりと囲む大きな外環壕が掘られ、推定20ヘクタール以上の環壕集落となった。首長を葬る墳丘墓や、多くの甕棺墓地も現れる。
集落の中では、住まいの区域と倉庫の区域が分けられていた。外洋を行く船をかたどったと思われる木製品や、朝鮮系の無文土器のかけらも見つかっている。
集落が大きくなるにつれ、その守りも厳重になっていった。公園は、ここから「争い」が激しくなってきたことがうかがえるとしている。
弥生時代後期(紀元1〜3世紀)になると、集落は北へ広がり、公園の言葉では40ヘクタールを超す国内最大規模の環壕集落となった。内側の壕で囲まれた特別な区域が二つ設けられた。物見櫓と大型の祭殿をもつ北内郭は、首長の住まいとまつりの場と考えられている。
南内郭は、身分の高い人々の住まいと考えられている。西側には、クニの物資を集め、市が開かれた可能性もある高床倉庫群があった。
環壕や城柵、物見櫓に守られて多くの人が集まって住み、青銅器や鉄器、布などの手工業が営まれ、交易の市もあったと推定されることから、公園はこの段階の吉野ヶ里を「弥生都市」とも呼べるクニの中心集落と表現している。
環壕と墓
最盛期の外環壕は、全長約2.5キロメートルに及んだ。公園によれば、壕には水が張られていた跡が見つかっていない。
そのため吉野ヶ里では、水をたたえた「濠」と区別して、から堀を表す「壕」の字を使っている。確認されている最も深いところは深さ約3.5メートル、幅約6.3メートルで、上の部分が削られているため、当時は深さ約4.5メートル、幅約7メートルあったと公園は見ている。
公園が紹介する研究では、長さ2.5キロメートル、幅7メートル、深さ3メートルの壕を掘るには、毎日100人が働いて約495日かかるという(土塁や城柵をつくる日数は含まない)。公園は、外環壕は外敵を防ぐ役割に重きを置き、内環壕は区域ごとの役割を分ける働きに重きを置いたつくりだと考えている。
解釈が分かれる
ここにどれほどの人が住んでいたかを知るのは難しい。公園はこれまでの研究から、最盛期には外環壕の内側におよそ300人、吉野ヶ里を中心とするクニ全体では6,000人ほどが暮らしていたのではないかと考えている。
墓も多くのことを語る。弥生時代中期には、それまで分かれていた甕棺墓地が、約600メートルに及ぶ長い列状の墓地にまとめられた。
これまでに甕棺は3,000基以上、そのほかの墓も350基以上見つかっている。公園によれば、甕棺墓は佐賀・福岡などに見られる、この地域独特の埋葬の方法である。
北内郭の北側には大きな北墳丘墓があり、その甕棺には銅剣やガラスの管玉が納められていた。公園はここに、社会の決まりが強まり、身分の差が広がっていった様子を見ている。有柄銅剣やガラス製管玉などの出土品は、国の重要文化財に指定されている。
集落の終わり
弥生時代の終わりにあたる3世紀中頃には、集落を囲む環壕はほぼ埋まり、北内郭・南内郭とともにその働きを失ったと公園は考えている。同じころ、南内郭の近くの丘には4基の前方後方墳が築かれた。丘の南部は、人々が暮らす場所から、人を葬る場所へと変わっていったようだ。
解釈が分かれる
人々がなぜここを離れたのかは分かっていない。公園は、理由にはさまざまな意見があるとしたうえで、周りの小さな集落はその後も残っていること、壕に生活の土器などを捨ててから出ていっていることから、古墳時代へと社会が移り変わる中で、自分たちの意思でこの地を離れたのかもしれないと述べている。
邪馬台国だったのか
解釈が分かれる
公園は、吉野ヶ里が邪馬台国だったという証拠は見つかっていないと、はっきり述べている。物見櫓の跡や倉庫と考えられる建物跡、幾重にもめぐる環壕は、魏志倭人伝の記す邪馬台国の様子を思わせるが、邪馬台国であるかどうかは分からない。
訪れられる場所
吉野ヶ里歴史公園*(吉野ヶ里町・神埼市)。1992年(平成4年)に国営公園として整備することが閣議決定され、その周りに佐賀県の公園区域も設けられた。2001年(平成13年)4月に一部が開園し、2024年(令和6年)7月の時点で約106.9ヘクタールが開園している。
公園では、弥生時代後期後半(紀元3世紀ごろ)の姿を復元している。遺構を守るため30センチメートル以上の土をかぶせ、その上の、建物がかつてあった場所の真上に復元している。環壕は、壕の底から50センチメートル以上の土を盛ったうえで、当時の深さと幅に復元された。
北墳丘墓では温度と湿度が一定に保たれ、遺構を直接見ることができる。開園時間や入園料は、訪れる前に公園の公式サイトで確かめてほしい。
出典
- 吉野ヶ里遺跡Agency for Cultural Affairs (Cultural Heritage Online)
- 公園概要(吉野ヶ里歴史公園)Yoshinogari Historical Park (national and prefectural park)
- 吉野ヶ里の歴史(吉野ヶ里歴史公園)Yoshinogari Historical Park
- 吉野ヶ里遺跡とは(吉野ヶ里歴史公園)Yoshinogari Historical Park (national and Saga prefectural park; Yoshinogari Park Management Center)
- 弥生Q&A(吉野ヶ里歴史公園)Yoshinogari Historical Park (national and Saga prefectural park; Yoshinogari Park Management Center)
- 発掘について(吉野ヶ里歴史公園)Yoshinogari Historical Park (national and Saga prefectural park; Yoshinogari Park Management Center)