アイヌ民族は、日本列島北部周辺、とりわけ北海道の先住民族である。19世紀ごろまで、アイヌの人びとは北海道、樺太(サハリン)、千島、東北北部などで暮らしてきた。
今も多くの人が北海道に住んでいるが、北海道を離れて日本各地や国外で暮らす人もいる。「アイヌ」という言葉は、アイヌ語で「人間」を意味する。
この記事では、北の海をまたぐ交易、松前藩とその後の明治政府による支配の強まり、そして文化を守り新たに育てようとするアイヌの人びとの取り組みという、三つの大きな流れをたどる。国立アイヌ民族博物館は、この歴史をアイヌの側から伝えている。基本展示は「私たち」という視点で、ことば・世界・くらし・歴史・しごと・交流の6つのテーマから構成されている。
北の海の交易者たち
国立アイヌ民族博物館は、アイヌ民族の歴史のはじまりを、北海道に人類がやってきた約3万年前にまでさかのぼるものとして説明している。同館によれば、7世紀ごろから、それまでの狩猟・採集・漁労に雑穀の農耕が加わり、海を越える交易を盛んに行う特色ある文化が形づくられていった。
交易は、アイヌ文化そのものの一部だった。博物館の説明では、儀礼で使うトゥキ(杯)は本州産の漆器、マキリ(小刀)の刃は本州や大陸の鉄であり、衣服の木綿や絹、首飾りのガラス玉も本州以南や、ときには中国から入ってきた。
これらを手に入れるため、アイヌの人びとは昆布や干し鮭、クロテンやラッコの毛皮を生産して送り出した。アイヌは狩猟・漁労の民であると同時に、交易の民でもあったと同館は述べている。
解釈が分かれる
北海道大学総合博物館の研究報告に載った関口明の論文は、日本の史料にラッコ皮が初めて現れるのを1423年としている。関口は、中世のラッコ皮が、アイヌの交易者から蠣崎氏(のちの松前氏)、十三湊の安藤氏、若狭の武田氏を経て、京都の足利氏へ渡ったという経路を示している。ただし、これは筆者の仮説であり、アイヌの交易の全体像を示すものではない。
本州から渡ってきた和人との関係は、ときに戦いにもなった。1457年、アイヌの指導者コシャマインが、渡島半島で和人と戦った。
コシャマインの軍は和人の館を次々と落としたが、最後は和人側が勝った。その後、1551年に蠣崎氏(のちの松前氏)とアイヌの間で講和が成立した。
松前藩と狭められる交易
1604年、松前氏は徳川家康から、アイヌとの交易を任される黒印状を受けた。松前藩は北海道を和人の住む和人地と、アイヌの人びとが暮らす蝦夷地とに分け、その間の行き来を厳しく取り締まった。ウポポイの博物館によれば、周辺の諸民族と自由に交易していたアイヌの人びとは、交易の場を制限されるようになった。
やがて松前藩は、家臣に土地や米の代わりとして、蝦夷地の決まった地域でアイヌと交易する権利を与えるようになった。藩や家臣たちは利益を増やそうと、アイヌの人びとの行動の自由を制限し、自分たちに有利な条件での交易を押しつけた。こうした中で、シャクシャインに率いられたアイヌの人びとが松前藩と戦った。
江戸幕府は東北の諸藩に出兵を命じ、シャクシャインがだまし討ちにあって戦いは終わった。その後、松前藩はアイヌへの支配を強めていった。
18世紀に入ると、和人の商人が交易を請け負い、漁場を経営するようになった。ウポポイの博物館によれば、多くのアイヌの人びとが漁場での労働に従事させられ、アイヌの社会は和人の経済の中に組み込まれていった。札幌市教育委員会の教員向け資料は、アイヌの人びとを脅したり殴りつけたり、妻を奪ったりする和人もいたと記している。
1789年、国後島と対岸のメナシ地方のアイヌの人びとが立ち上がり、ひどい振る舞いをしていた和人たちを殺害した。北海道アイヌ協会は、漁場での強制的な労働や、過酷な扱い・労働条件への抵抗だったとしている。
国後の指導者ツキノエたちは、立ち上がった人びとを説得して松前藩との話し合いを求めたが、松前藩は指導者たちを処刑した。北海道アイヌ協会によれば、処刑されたのは37人である。
明治政府の支配―土地・生業・同化
1869年、発足したばかりの明治政府は、北海道・千島・樺太の開拓と行政を担う開拓使を設けた。その翌月、蝦夷地は「北海道」と改められた。
札幌市の教員向け資料は、これを政府が一方的に日本の一部としたものと説明している。開拓使は移住の受け入れや産業の振興を進め、1882年に廃止された。
大きな転換点は、新しい土地制度だった。1872年(明治5年)の地所規則第7条は、アイヌの人びとが狩猟・漁労・伐木などに使ってきた土地にも区画を設け、各区画の所有者に地券を出すと定めた。札幌市の資料は、これがアイヌの利用地を国家が取り上げ、民間へ払い下げることを意味したと説明する。
アイヌの人びとは、こうした生活の場を「イウォロ」と呼び、コタン(集落)に暮らす全員のものと考えていた。開拓使はこの考え方を理解しないまま個人所有の仕組みを押しつけ、本州から移ってきた和人がその区画に所有権を設定していった。
生業も制限された。毒矢や仕掛け弓による狩猟や、川上での鮭漁が禁じられ、ウポポイの博物館によれば、主食の確保さえままならなくなった。
開拓使はまた、女性の入れ墨や男性の耳飾りなどの風習を禁じ、日本語の学習を勧めた。アイヌの人びとは戸籍の制度によって日本の国民に組み込まれたが、「旧土人」と区別され、差別を受けることになった。
1875年の条約で樺太がロシア領とされると、樺太アイヌのうち841名が北海道の宗谷へ移住させられ、翌年さらに石狩の対雁(現在の江別市)へ移された。その後、コレラなどの伝染病で多くの人が亡くなり、多くの人がやがて樺太へ帰っていった。文化庁は、開拓使の文書から、アイヌの人びとが強いられた暮らしの過酷な実態がうかがえると述べている。
1899年、政府は北海道旧土人保護法を定めた。農業を営むことを条件にアイヌの人びとに土地を与え、日本語で教える「アイヌ学校」を設けるという内容だった。しかし、農業に向く土地の多くはすでに和人に割り当てられており、アイヌ学校の教育内容も和人の学校より低かった。
アイヌ学校は1937年の法改正を機に廃止された。札幌市の教員向け資料は、この法律が保護を名目としながら、アイヌ民族を同化させるためのものだったと説明している。
自ら未来を切り開こうとした人びと
アイヌの人びとは、政策をただ受け入れるだけではなかった。1896年、新冠の姉去(あねさる)で自ら牧場を営んでいた古川アシンノカルは、子どもたちのための私立学校を設けた。
幼いころ樺太から移住させられた山辺安之助は、のちに樺太へ戻り、役人から「待て」と言われ続けるなかで、1906年に自ら私設の学校を開いた。北海道博物館の小川正人は、こうした学校が日本の公教育のもとでの学校を目指していたと指摘し、山辺にとってそれは、愛着ある文化をあえて遠ざけてでも子どもたちのためを思う、厳しい決断だったとみている。
大正デモクラシーの流れの中で、アイヌの人びと自身が、差別や「昔ながらの暮らしをしている」という偏見を批判した。民族の組織をつくる動きもあり、町や村の議員に当選する人もいた。昭和の初めには、今の旭川市でアイヌの人びとの土地が取り上げられそうになったが、代表が東京で反対運動をするなどして、これを防いだ。
第二次世界大戦の後、アイヌの人びとは差別に抗議し、暮らしを良くするため、世界の先住民族とも協力しながら活動を始めた。一方で、明治以降の差別のために、アイヌであることを隠す人も多く、今もアイヌであると名乗れない人が大勢いることを、ウポポイの博物館は強調している。
1970年代ごろからは、道内各地で刺繍や木彫、踊りや歌を伝える活動が行われてきた。1992年には北海道ウタリ協会理事長の野村義一が国連の式典でアイヌ民族の権利を訴え、1994年には萱野茂がアイヌ民族として初めて国会議員になった。
認められたことと、残る課題
1997年、アイヌ文化の振興を図る法律が施行され、北海道旧土人保護法は廃止された。ウポポイの博物館は、この1997年の法律を、アイヌを初めて民族として認めた法律と位置づけている。
2007年には国連で「先住民族の権利に関する国際連合宣言」が採択され、2008年6月には衆参両院で「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」が全会一致で採択された。2019年のアイヌ施策推進法は、アイヌを「日本列島北部周辺、とりわけ北海道の先住民族」と初めて法律で規定し、アイヌであることを理由とする差別を禁じた。
解釈が分かれる
2019年の法律については、評価が分かれている。この法律は、アイヌの人びとが民族としての誇りを持って暮らせる社会の実現を目的に掲げている。一方、札幌市の教員向け資料は、土地や資源に関する具体的な権利や民族自決権が盛り込まれていないことなどを挙げ、アイヌ民族にとって十分といえる法律ではないとしている。
アイヌ語は日本語の方言ではなく、まったく別の言語である。2009年にユネスコによって「消滅の危機にある言語」とされたが、今では各地でアイヌ語を学ぶ人がいる。
ウポポイを訪ねる
ウポポイ(民族共生象徴空間)は2020年7月12日、北海道白老町で一般公開を始めた。国立アイヌ民族博物館を含むウポポイでは、アイヌ語が第一言語とされている。開園時間や休園日は、訪れる前に公式サイトで確認してほしい。
出典
- よくある質問(FAQ)Upopoy / National Ainu Museum
- About UpopoyUpopoy / Foundation for Ainu Culture
- 中世日本の北方社会とラッコ皮交易:アイヌ民族との関わりで(改訂版)Hokkaido University Museum
- 北海道データブック2020_あゆみHokkaido Government
- 開拓使とはHokkaido Archives
- 開拓使文書に拾う北海道史の一場面Hokkaido Archives
- 開拓使文書Agency for Cultural Affairs, Cultural Heritage Online
- 自ら学校をつくる──近代日本を生きたアイヌ民族の歩みをたどるHokkaido Museum / Masahito Ogawa
- 第1章 アイヌ民族の歴史・文化等に関する指導を行うに当たってSapporo City Board of Education
- 公益社団法人 北海道アイヌ協会 — HistoryAinu Association of Hokkaido
