日本の多くの地域に稲作が広がるよりずっと前から、北海道の南部と中央部の人びとは、村をつくり、食べものを蓄え、亡くなった人をていねいに葬り、遠くの人びとと物をやりとりしていた。しかも、農耕を暮らしの中心にすることなく、それを成し遂げていた。こうした集落の跡は、世界遺産「北海道・北東北の縄文遺跡群」の一部になっている。
北海道南部と、津軽海峡を越えた北東北の17の遺跡からなり、紀元前約13,000年から紀元前400年ごろまでの長い時間を示す。世界遺産一覧表に記載されたのは2021年7月27日である。
縄文時代は、土器が作られ始めた紀元前13,000年ごろに始まり、1万年以上続いた。人びとは主に採集・漁労・狩猟で食べものを得ていたが、犬を飼い、植物を栽培することもあった。
土器で煮炊きができるようになると、硬いものやあくの強いものも食べられるようになり、食生活が安定した。北海道にある構成資産のうち4つの遺跡から、その暮らしが具体的にどのような姿をしていたかを見ていこう。
農耕なしの定住
世界遺産の公式サイトは、この遺跡群を、狩猟・漁労・採集にもとづく定住が1万年以上続いた、まれな例だと説明している。人びとがこの暮らしに一足飛びにたどり着いたわけではない。
移動する生活から定住する生活へと移るなかで集落が現れ、その形も変わり続けた。たとえば縄文時代後期には、大きな拠点となる集落が減り、集落が分散するようになった。
函館市南茅部にある大船遺跡は、長く営まれた集落の姿をよく伝える。太平洋を望む標高30〜50メートルの海岸段丘の上、大船川のほとりにあり、背後には落葉広葉樹の森が広がる。遺跡が営まれたのは紀元前約3,500年から2,000年ごろである。
居住域には100棟を超える竪穴建物の跡があり、その南西には、墓や貯蔵穴などの穴が100基以上ある。竪穴建物の多くは深く掘られ、2メートルを超えるものもある。ある大型の建物は深さが2.4メートルあり、6つの柱穴と、石で囲んだ小さな炉があった。
遺跡はおよそ1,500年にわたって使われたので、「100棟を超える竪穴建物」は、長い時間の中で積み重なった跡の数だと考えられる。100軒の家が同じ時に並んでいたわけではないだろう。
大船の人びとは、大きな盛土も築いた。盛土からは土器や石器、焼けた土が大量に見つかっており、長い間くり返し祭りや儀礼が行われたことがうかがえる。焼けたクジラの脊椎骨も見つかっていて、動物にかかわる儀礼があったと考えられている。
海と森の恵み
大船から見つかった食べものの跡は、人びとが海と森の両方を利用していたことを示す。クジラやオットセイ、マグロ、サケの骨、カキの殻、クリやクルミ、ヤマブドウ、そしてウルシの木の跡がある。
内浦湾に面した伊達市の北黄金貝塚からは、より海に重きを置いた暮らしが見えてくる。遺跡は標高10〜20メートルの丘の上にあり、紀元前約5,000年から2,000年ごろまで営まれた。
貝塚にはハマグリ、カキ、ホタテガイの殻に加え、マグロやヒラメ、オットセイ、クジラの骨が含まれ、漁労を中心とした暮らしがうかがえる。貝塚や竪穴建物は、海面の上昇と下降によって海岸線が行き来した時代のものである。
北黄金にあるものが、すべて単に捨てられたものというわけではない。貝塚と墓が一体になった場所があり、人骨を伴う墓や、シカの頭骨を並べた動物儀礼の跡が見つかっている。
湧き水の近くには、木の実をすりつぶすのに使ったと考えられる石皿やすり石が大量に残されていた。その多くが割れていたことから、石器を捨てる際に祭祀や儀礼が行われた場だったと考えられている。
死者への思い
函館市の垣ノ島遺跡は、紀元前約7,000年から1,000年ごろにわたる。この集落では、住まいの場所と墓の場所が分けられていた。日常の空間と特別な空間を区別していたことを示している。
大きな土坑墓からは、子どもの足形をつけた土版が10枚見つかった。副葬品として納められたものである。紀元前2,000年ごろには、長さ約190メートルのコの字形の盛土も築かれた。
世界遺産の公式サイトによれば、この種のものとしては国内最大級で、葬送や儀礼の場として使われたと考えられている。
千歳市のキウス周堤墓群は、紀元前1,200年ごろのものである。人びとは地面を掘り、その土を墓の周りに積み上げて、円形の土手を築いた。周堤墓は9基あり、そのうち8基は今も形が分かる。
どれも直径30メートル以上あり、最大のものは外径83メートル、土手の頂上から穴の底までの深さは4.7メートルに及ぶ。動かした土の量はおよそ3,000立方メートルと推定されている。多くの墓には、ベンガラと呼ばれる酸化鉄の赤い顔料の跡があり、墓標と考えられる立石が立つ墓もある。
解釈が分かれる
これらの遺構からは、死者へのいたわりや、くり返された営み、人びとが力を合わせた労働が読み取れる。けれども、作った人びとにとってそれが何を意味していたのかを知るのは難しい。土偶や石刀など、この時代の儀礼の道具は数多く見つかっているが、正確な用途は分かっていない。狩りの豊かさや安全を祈る儀礼、祖先の供養、あるいは威信を示す品として使われた可能性があるものの、いずれも推測の域を出ない。
海を越えたつながりと、北海道独自の歩み
海は、人びとを隔てると同時に結びつけてもいた。縄文の人びとは、ヒスイやアスファルト、黒曜石を遠くまで運んだ。
今から約3,800年前、縄文文化の北の端にあたる礼文島では、人びとがアシカやトドを狩り、貝で玉の飾りを作っていた。国立歴史民俗博物館によれば、その飾りは北海道の各地やシベリアにまで届けられたという。
その後の北海道も、本州とは違う道をたどった。北海道の縄文文化は2,000年あまり前に終わる。このころ、稲作は本州の東北地方まで広がっていたが、津軽海峡を越えて北海道に伝わることはなかった。
北海道博物館は、その後に続いた地域独自の文化を次のように説明している。続縄文文化は7世紀ごろまで続いた。擦文文化は7〜8世紀ごろに生まれて12世紀ごろまで続き、人びとは漁や狩りに加えてアワやヒエなどの雑穀も育てた。
また早ければ5世紀には、サハリンから来た人びとのオホーツク文化がオホーツク海沿岸に広がり、9世紀ごろまで続いた。
縄文・続縄文・擦文・オホーツクの各文化が、のちの時代のアイヌの人びととどのようにつながるのかは、今も研究が続いている。たとえば国立歴史民俗博物館の共同研究(2022〜2024年度)は、オホーツク文化と擦文文化を手がかりに、古代から中世にかけてアイヌの歴史がどのように展開したかを明らかにしようとしている。
遺跡を訪ねる
ここで紹介した4つの遺跡は見学でき、近くには出土品を展示する施設もある。函館市縄文文化交流センターでは、垣ノ島や大船など函館市内の遺跡の出土品を見ることができ、両遺跡では職員が日本語の無料ガイドを行っている。北黄金貝塚の情報センターでは、出土品と貝塚の断面が展示されているが、12月から3月までの冬の間は閉館する。
遺跡では、地下に埋まっている貝塚の範囲を示すため、今の貝殻が地表にまかれている。キウス周堤墓群については、公式サイトが見学者向けの施設として千歳市埋蔵文化財センターを案内している。
今見ることのできる遺跡は、現代に管理された景観の中で守られている場所であり、何千年も前の姿がそのまま残っているわけではない。開館時間やガイドの時間は変わることがあるため、訪れる前に世界遺産の公式サイトで確かめてほしい。
出典
- Learning about the Jomon Prehistoric Sites in Northern JapanJomon Prehistoric Sites World Heritage Promotion Headquarters
- About the Jomon periodJomon Prehistoric Sites World Heritage Promotion Headquarters
- Ofune SiteJomon Prehistoric Sites World Heritage Promotion Headquarters
- Kitakogane SiteJomon Prehistoric Sites World Heritage Promotion Headquarters
- Kakinoshima SiteJomon Prehistoric Sites World Heritage Promotion Headquarters
- Kiusu Earthwork Burial CirclesJomon Prehistoric Sites World Heritage Promotion Headquarters
- Hokkaido's Tale of 1.2 Million Years — Emergence of Hokkaido's Original CulturesHokkaido Museum
- The Jomon people in the northern Island — Cultural interchange beyond the seaNational Museum of Japanese History
- Reconstruction of the formation process of Ainu culture based on archaeological studyNational Museum of Japanese History
