会津は、今の福島県会津若松市を中心とする地域で、長い間にわたって多くの領主が治めてきた。この記事では、1643年の保科正之の入部から、会津での藩の支配を終わらせた1868年の戦争までをたどる。
会津の歴史は、飯盛山で命を絶った少年たち「白虎隊」を通して語られることが多い。この記事では、藩の政治、戦争を生きた人びとの経験、戦争に至った軍事・政治上の判断、そして後世の記憶と語りを、分けて見ていく。
徳川一門の藩として
1643年より前にも、会津には多くの領主がいた。1590年に会津に入った蒲生氏郷は、1593年に天守閣を完成させて城を「鶴ヶ城」と名づけ、黒川という地名を若松に改めた。その後、1611年の大地震で城が大きな被害を受けると、加藤嘉明・明成の父子が大規模な改修を行った。
1643年(寛永20年)、保科正之が最上(山形)から23万石で会津へ移された。正之は二代将軍徳川秀忠の子で、三代将軍家光の異母弟にあたり、信濃国高遠藩主の保科正光の養子となっていた。1696年からは、将軍の命により、藩主家は松平の姓と葵の紋を用いるようになった。
1668年(寛文8年)、正之は「家訓十五箇条」を定めた。会津若松市が引く第一条は、将軍家に一心に忠勤を尽くすことを求め、もし藩主が二心を抱くようなことがあれば家臣は決して従ってはならない、とする。埼玉県立図書館の調べで引かれた藩の事典は、家訓が幕末まで藩主・家臣の精神的な支えになったとしている。
鶴ヶ城を管理する財団によれば、寒さや雪に耐えられるよう、正之の命で、釉薬を使った赤瓦が会津で開発された。
藩校日新館は、城の西側に1799年から建てられ、1803年に完成した。会津若松市によれば、10歳から入学でき、文武の28科目を教え、生徒は千数百名に及んだとされる。
福島県は、日新館が諸藩の模範的な学校になったと説明している。
京都から戦争へ
1862年(文久2年)、九代藩主の松平容保は、新しく設けられた京都守護職に任じられた。会津若松市によれば、病床にあった容保は何度も辞退した。
越前藩主の松平春嶽は藩祖保科正之の遺訓を持ち出して説得を続け、家老の西郷頼母らは辞退を迫った。容保は最後に引き受け、藩士千人を率いて京都に入った。
解釈が分かれる
京都守護職としての容保は、尊王攘夷派を厳しく取り締まった。国立国会図書館は、新政府軍の中心となった薩摩・長州・土佐の藩士の中には、容保や会津藩、新選組に恨みを抱く者も多く、会津攻めは他の藩に対するものとは違う背景をもっていたとも言われる、と述べている。
戊辰戦争は、慶応4年1月3日(1868年、旧暦)、京都の鳥羽・伏見での戦いから始まった。会津藩ははじめ、朝廷と新政府軍に従う意向を示していた。
しかし、新政府軍が最初に示した降伏の条件は、容保の斬首、城の明け渡し、領地の没収という厳しいものだった。この強硬な姿勢に対して藩内で戦うべきだとする人びとが力を持ち、会津藩は全面的な抵抗へと転じた。
若松城の籠城戦
新政府軍と会津藩の戦いは、閏4月24日(旧暦)の白河城の攻防から始まった。新式の小銃や大砲をそなえた新政府軍に対して、会津側はしだいに押されていった。
8月には戦場が会津へ移った。城では約1か月にわたる籠城戦が続いた。
城には、老人・子ども・女性約1,000名を含む、およそ5,000名が立てこもった。城は包囲され、砲撃を受けた。9月14日の総攻撃では、50門の大砲がそれぞれ50発ずつ撃ち込んだと言われる。
城内は負傷者であふれ、国立国会図書館が引く記録は、病室や女性たちの部屋で砲弾が破裂したようすを伝えている。
慶応4年9月22日(旧暦)、会津藩は新政府軍に城を明け渡し、降伏した。長州藩の兵士は開城後のようすについて、城の玄関前から深く掘った塹壕に畳を敷いて人びとが入っており、米はわずか20〜30俵しかなかった、と証言している。
戦争に巻き込まれた人びと
解釈が分かれる
国立国会図書館によれば、会津側の戦死者は約2,400名である。戦闘に巻き込まれて殺された農民や女性なども含めると、数千名にのぼるという説もある。
女性や少年も戦いに加わった。今も語り継がれる出来事として、家老西郷頼母の家族は、足手まといになるとして城に入らず、城下の屋敷で一族21名が自害した。のちに新島襄の妻となる山本八重も、城にこもって自ら銃を手に戦った一人だった。
白虎隊
鳥羽・伏見での大敗のあと、会津藩はただちに軍制を西洋式に改め、藩士の部隊を年齢別に編成し直した。農民や町人からも民兵を募った。白虎隊は16・17歳の若者で編成され、全体で約300名だった。
16・17歳の少年たちでつくる白虎隊の一隊(士中二番隊)は、戸ノ口原の戦場から退き、飯盛山にたどり着いた。そこで鶴ヶ城の天守を覆い隠す黒煙を目にし、自ら命を絶つ道を選んだ。この地には19人の隊士が葬られている。
解釈が分かれる
少年たちが何を考えたかについては、同じ市の資料の中でも書き方が二通りある。資料の本文は、城に戻って戦うか敵陣に斬り込むかで激論が交わされ、捕らえられるよりも死を選んだとする。一方、同じ資料のまとめの部分は、「城は陥落したか、今は主君のために殉じよう」としたと記している。ただ一人命をとりとめた飯沼貞吉によって、この話は広く知られるようになった。
敗戦・移住・記憶
降伏の後、容保は隠退し、松平家は陸奥国の南部地方へ移された。石高は23万石から3万石へと大きく減った。藩主に従って移り住んだ元会津藩士は17,000名にのぼり、その多くが寒さの厳しい土地で飢えに苦しみ、多くの人が飢えや病気で亡くなった。
新しい時代に活躍した元会津藩士もいた。1877年の西南戦争では多くの元会津藩士が政府軍に加わった。
山川大蔵(のちの山川浩)は陸軍少将となり、その弟の山川健次郎は東京帝国大学の総長を務めた。新島八重は日清・日露戦争で篤志看護婦として働いた。
記憶は、形を整えて受け継がれていった。飯盛山の白虎隊士の墓は1883年に整備され、1890年と1925年に墓域が広げられた。
1917年には慰霊のための財団(会津弔霊義会)が認められ、毎年4月24日と9月24日に墓前祭が行われている。墓域には、ほかに白虎隊士31名の墓と、2001年に建てられた14〜17歳の少年武士62名の慰霊碑もある。
会津若松観光ビューローの理事長によれば、「朝敵」とされた思いは長く残った。理事長は、1928年、旧藩主松平家の節子が秩父宮家に嫁ぐことが報じられると、若松の人びとは「ようやく朝敵の汚名が晴れた」と喜んだそうだ、と書いている。
2018年9月22日、会津若松市は戊辰150周年の記念宣言を出した。宣言は、この戦いを会津にとって望まぬ戦いであり、「義」の思いを抱いて戦い続けたものとし、亡くなった人びとの慰霊、戦争の悲惨さと平和の尊さを語り継ぐこと、そして会津の歴史が正しく認識されるよう新たな史料の発掘・研究に努めることを誓っている。
解釈が分かれる
この戦争の評価は、今も立場によって異なる。会津会会長の柳澤秀夫は市の記念誌で、会津にとっては「維新150年」ではなく「戊辰150年」であるように、歴史の評価は立場によって異なる、と書いている。
会津若松を訪ねる
会津若松市の鶴ヶ城は、「若松城跡」として国の史跡に指定されている。明治7年(1874年)までに建物はすべて取り壊されたが、1965年に天守閣が再建され、2011年には屋根が幕末当時と同じ赤瓦にふき替えられた。
天守閣の中は、会津の武家の時代を伝える郷土博物館になっており、戊辰戦争(会津戦争)を多角的な視点で紹介する展示もある。
飯盛山では、白虎隊士の墓を訪ね、そこから鶴ヶ城の天守閣を望むことができる。市はこの眺めを景観計画で守っている。開館時間などは、訪れる前に公式サイトで確認してほしい。
出典
- 会津戦争National Diet Library
- 会津の歴史と戊辰150年Contributors to the Aizuwakamatsu City Boshin 150th anniversary book (named individuals)
- 大名 - 11.千年の松(デジタル展示「大名」)National Archives of Japan
- 親善交流都市締結後の交流のあゆみ(伊那市)Aizuwakamatsu City
- 会津と新選組~幕末の会津と新選組の歴史を紐解く~Aizuwakamatsu City
- 松平容保|近代日本人の肖像National Diet Library
- 会津藩家訓15カ条を知りたい。(レファレンス協同データベース)Saitama Prefectural Kuki Library (published in the National Diet Library's Collaborative Reference Database)
- 市政だより「あなたの声に市長が答えます」Aizuwakamatsu City
- 会津若松市戊辰150周年記念宣言Aizuwakamatsu City
- 近世Fukushima Prefecture
- 4.飯盛山と白虎隊をはじめとする先人慰霊にみる歴史的風致Aizuwakamatsu City
- 鶴ヶ城のご案内一般財団法人 会津若松観光ビューロー (Aizuwakamatsu Tourism Bureau)
