奈良盆地の南部に、隣り合う二つの地域がある。丘陵に囲まれた小さな盆地の飛鳥と、その北西に開けた藤原の平野である。6世紀末から8世紀初めにかけて、日本列島の支配者たちはここに宮殿を営み、寺院を建て、墓を築いた。
2026年(令和8年)7月26日、韓国・釜山で開かれた世界遺産委員会は、「飛鳥・藤原の宮都」を世界遺産一覧表に記載することを決めた。構成資産は19件で、日本で27件目の世界遺産である。文化庁によれば、これらの遺跡群は、日本列島で初めて中央集権の体制が生まれ、成り立っていった過程を、二つの宮都の移り変わりを通して示している。
飛鳥の時代
地元の世界遺産協議会は、592年に推古天皇が飛鳥の豊浦宮で即位してから、710年に都が平城京へ移るまでの約120年間を飛鳥時代と呼んでいる。協議会によれば、この時代に遣隋使の派遣や憲法十七条の制定、たび重なる政治改革を経て、「日本」という国が形づくられていった。
それまで宮殿は、天皇が代わるたびに場所を移していた。630年に舒明天皇が岡本宮を造営してから、宮殿は飛鳥の一か所に定まった。飛鳥宮跡には、7世紀に次々と営まれた四つの時期の宮殿の跡が重なっている。
発掘調査から、これらの宮殿は、公的な儀式や政治の場と、天皇が私的に暮らす空間とが一体になっていたことが分かっている。役所は宮殿の内外に散らばっており、宮殿の中にまとめられてはいなかった。飛鳥の宮殿は、すべて柱を地面に直接埋めて立てる掘立柱の建物だった。
宮殿の周りには、国の力の充実を示す施設が置かれた。飛鳥京跡苑池は7世紀中頃につくられた庭園で、飛鳥浄御原宮(672〜694年)の時代まで使われた。
協議会は、のちの日本庭園につながる最古の例と位置づけている。660年につくられた飛鳥水落遺跡は、協議会によれば日本最古の水時計台の跡である。
飛鳥寺と仏教の伝来
仏教が日本に伝わったのは6世紀半ばとされる。587年に蘇我馬子が寺を建てることを発願し、588年に飛鳥で建設が始まった。
奈良文化財研究所によれば、造営では朝鮮半島の百済から来た知識人や技術者が中心的な役割を果たした。この飛鳥寺は596年に完成した。
奈良文化財研究所は、飛鳥寺を日本で初めて造られた本格的な仏教寺院としている。1956年から翌年にかけての発掘調査で、五重塔の北と東西に三つの金堂を置く伽藍配置が明らかになった。
高句麗には同じ形の寺があるが、日本ではほかに例がない。中金堂の本尊は、今の飛鳥大仏である。
塔の心礎の周りからは、玉類や金・銀の環、挂甲(よろい)などが見つかった。飛鳥資料館は、これらを同じ時期の古墳の副葬品そのものと言ってよいものだとし、古墳がつくられる一方で、豪族たちの間に仏教が広まり始めた頃の様子をよく表していると考えている。
協議会は、寺院がもたらしたのは信仰だけではなかったと強調する。経典に欠かせない漢字のほか、土木・建築・測量・瓦づくり・金属加工などの新しい技術が寺院とともに伝わり、中国や朝鮮半島から来たこれらの知識と技術が国づくりの基礎となった。寺院は、宮殿とは違い、瓦葺きで礎石の上に柱を立てる建物だった。
寺院は次々に建てられた。協議会によれば、飛鳥寺をきっかけに、有力な豪族たちが山田寺のような自らの寺(氏寺)を建て、やがて国を守る国家の寺院が生まれた。7世紀中頃、天智天皇が亡き母・斉明天皇のために建てた川原寺では、建物の造営に使われた尺度や、塼仏(せんぶつ)による堂内の飾りに、唐の大きな影響が見られる。
碁盤の目の都・藤原京
橿原市によれば、新しい都の造営は676年、天武天皇の時代に始まった。協議会は、飛鳥の盆地が手狭になったためだと説明している。694年、持統天皇は飛鳥浄御原宮から藤原宮へ移った。
藤原京は、694年から710年に平城京へ移るまで、持統・文武・元明の3代の天皇の都だった。橿原市は、藤原京を中国風の条坊制(碁盤の目状の街区)を取り入れた日本で最初の本格的な都としている。宮は約1キロ四方、京は約5キロ四方の広さがあった。
宮は、橿原市によれば宮殿を守る聖なる山と考えられた大和三山の、ほぼ中央に置かれた。塀の内側には、天皇の住まい(内裏)、大極殿、儀式の場である朝堂院、そして役所が並んだ。協議会によれば、藤原宮は中国風の瓦葺き・礎石建ての建物を初めて取り入れた宮殿であり、役所が一つの宮殿にまとめられたことは、中央集権の体制が確立したことを示している。
京の中には、宮の南に大官大寺と本薬師寺という二つの国家の寺院が置かれた。墓も南の方角に配置された。天武・持統天皇陵古墳は、藤原宮の中軸にあたる朱雀大路の真南にあり、墓と宮殿が一体として計画されたことを示している。
協議会は、大宝律令が完成した701年を、新しい都で国の仕組みが整い、「日本」という国家ができあがったことを示す年としている。藤原京の設計は、のちの平城京や平安京の原型となった。710年の遷都の際には主な建物が解体されて移され、平城宮の大極殿も藤原宮から移築したものといわれている。
藤原宮がどこにあったのかは、長く謎とされてきた。1934年に始まった発掘調査で場所が確かめられ、1946年に国の史跡、1952年に特別史跡に指定された。その間、大極殿の基壇の跡は、地元の神社の鎮守の森として残っていた。
古墳―巨大な墳丘から八角墳へ
協議会によれば、構成資産の古墳は、前方後円墳に象徴される有力豪族の連合の時代の墓から、天皇を頂点とする中央集権国家の墓へと移り変わる様子を示している。石舞台古墳は一辺約50メートルの方墳で、墳丘の上部が失われ、巨大な石室の天井石がむき出しになっている。
解釈が分かれる
石舞台古墳を、『日本書紀』に「桃原墓」として記される蘇我馬子(626年没)の墓とする説がある。
7世紀後半の牽牛子塚古墳は八角墳である。協議会によれば、八角形の墳丘は、中国の宇宙観にもとづきながら、方墳に代わって日本で独自に生み出された形である。
高松塚古墳は、7世紀末から8世紀初めにつくられた直径約23メートルの円墳である。1972年(昭和47年)3月、発掘調査で壁画のある石室が見つかった。天井には星宿図、壁には四神や男女の群像が描かれていた。
この発見は、全国的な飛鳥・考古学ブームを巻き起こした。近くのキトラ古墳には、協議会によれば、東アジアに現存する最古の天文図が伝わっている。
世界遺産として
2026年6月6日、諮問機関のイコモスが「記載」を勧告した。世界遺産委員会は、二つの基準にもとづいて記載を決めた。
一つは、中国大陸や朝鮮半島との交流と仏教の伝来を示すこと、もう一つは、中央集権の体制を土台とした東アジアの古代の宮都が形づくられていく過程を示す物証であることである。委員会はあわせて、キトラ古墳と高松塚古墳から取り外された壁画について、保存と元の場所への復帰に関する科学的研究を続けることなどを日本に勧告した。
訪れられる場所
19件の構成資産は、橿原市・桜井市・明日香村に広がっている。協議会の「訪れる」のページには構成資産の地図があり、近鉄飛鳥駅や桜井駅からバスで回る例が紹介されている。橿原市によれば、藤原宮跡からは今も三方に大和三山を望むことができる。
さらに知りたい人のために、協議会は資料館や博物館を紹介している。発掘された山田寺の東面回廊を展示する奈良文化財研究所飛鳥資料館、奈良文化財研究所藤原宮跡資料室、文化庁のキトラ古墳壁画保存管理施設がある「キトラ古墳壁画体験館 四神の館」、発見当初の壁画の模写を展示する高松塚壁画館などである。開館日や開館時間は、各施設の公式サイトで確かめてほしい。
出典
- 「飛鳥・藤原の宮都」に係る世界遺産委員会決議について(報道発表、令和8年7月26日)Agency for Cultural Affairs
- 「飛鳥・藤原の宮都」に係る世界遺産委員会決議についてお知らせします(概要)(第二報、別添1〜3と資料を含むPDF)Agency for Cultural Affairs (文化庁)
- 奈良県の世界遺産Nara Prefecture
- 構成資産の紹介(世界遺産「飛鳥・藤原の宮都」)Asuka-Fujiwara World Heritage Council
- Introduction of Component Parts (About Asuka-Fujiwara)Ancient Capitals of Asuka and Fujiwara Council
- 「飛鳥・藤原」を知るAncient Capitals of Asuka and Fujiwara Council (世界遺産「飛鳥・藤原」協議会)
- 世界遺産を知る(世界遺産を目指して)Ancient Capitals of Asuka and Fujiwara Council (世界遺産「飛鳥・藤原」協議会)
- 「飛鳥・藤原」を訪れるAncient Capitals of Asuka and Fujiwara Council (世界遺産「飛鳥・藤原」協議会)
- 飛鳥寺西門地区の調査 現地説明会資料(1996年10月5日)Nara National Research Institute for Cultural Properties
- 飛鳥資料館のみどころ(12) 展示品解説 その4「飛鳥寺の塔の埋納物」Asuka Historical Museum, Nara National Research Institute for Cultural Properties
- 藤原宮跡Kashihara City (entry in Nara Prefecture's heritage database いかす・なら)
- 藤原宮跡Agency for Cultural Affairs (Cultural Heritage Online)
- 国宝高松塚古墳壁画保存管理の経緯(昭和47年〜平成18年9月)Agency for Cultural Affairs
- 夏期企画展 第13回写真コンテスト「高松塚古墳」(ぶんかる 文化財のトビラ097)Agency for Cultural Affairs (author: Hamamura Mio, Asuka Historical Museum)
