北部九州に、古代の国家は互いに結び付いた二つの施設を置いた。一つは、今の太宰府市の内陸にあって九州を治め、外交を担った役所「大宰府」。もう一つは、今の福岡市、博多湾をのぞむ丘の上にあって、外国からの客を迎え、日本の使節を送り出した迎賓施設「鴻臚館」である。
この記事では、663年の朝鮮半島での敗戦のあとに守りを固められた大宰府と、外交の舞台から交易の場へと姿を変えた鴻臚館をたどり、最後に、二つの遺跡が発掘によってよみがえった経緯を紹介する。
西の国々を治めた役所
太宰府市によれば、大宰府は古代の律令制のもとで外交を握り、西海道(九州)の諸国、いわゆる「九国二島」も治めた役所である。福岡県の九州歴史資料館は、奈良・平安時代の大宰府の主な職務を外交と軍事と説明している。
大宰府の中心は政庁で、その跡は「都府楼跡」と呼ばれている。資料館によれば、政庁は大宰府の長官(大宰帥)が政治や儀礼を行う場所だった。奈良の平城宮の配置を手本とした左右対称の瓦葺きの礎石建物が並び、築地や回廊で囲まれていた。
発掘調査では、建物に大きく三つの時期があることが分かっている。最初は7世紀後半の掘立柱建物で、8世紀初めに礎石建物に建て替えられた。
941年の藤原純友の乱で焼けたのちも、ほぼ同じ規模で再建された。太宰府市は、11世紀後半には政庁がその機能を失い、今見られるような礎石だけの姿になったと考えられる、としている。
白村江の戦いのあとの守り
大宰府の周りの守りは、ある戦いをきっかけに築かれた。九州歴史資料館によれば、倭(日本)は百済の復興のために朝鮮半島へ援軍を送ったが、663年の「白村江の戦い」で唐・新羅の連合軍に敗れた。文化庁は、この戦いのあと水城や大野城、基肄城が築かれ、大宰府の守りが強化されたと説明している。
『日本書紀』は、664年の条に、筑紫に大きな堤を築いて水をたくわえさせ、これを「水城」と名付けたと記す。全長約1.2キロメートルの大土塁は、博多湾側から太宰府へ向かう平野が最も狭くなる地点をふさぐように築かれた。東西の両端には城門があり、博多湾側には大きな濠が設けられていた。
解釈が分かれる
水城が実際にどのように水をたくわえたのかは、決着していない。九州歴史資料館は博多側の外濠に水をたくわえていたと説明するが、文化庁は、水城が水をどのように貯えたかについては異論もあるとしており、解釈が分かれる。
発掘調査では、西門を、筑紫館(のちの鴻臚館)から続く官道が通っていたことが分かっている。さらに西側にも、尾根の先端をふさぐように小さな土塁がいくつも築かれており、資料館は、広い範囲で敵に備えたことが分かるとしている。
『日本書紀』はまた、その翌年、百済の高官である憶礼福留(おくらいふくる)と四比福夫(しひふくぶ)の指導で、大野城と基肄城が築かれたと伝える。大野城は政庁の背後にある標高410メートルの山に築かれた。尾根には土塁、谷には石塁を築いて約8キロメートルの城壁をめぐらせ、城内では倉庫とみられる礎石建物の跡が70棟以上見つかっている。
博多湾の迎賓施設、鴻臚館
福岡市によれば、鴻臚館は飛鳥時代後半から平安時代後半にかけて、日本の玄関口として置かれた迎賓施設である。大宰府の外交の窓口として整えられ、平安時代に「鴻臚館」と呼ばれるようになる前は「筑紫館(つくしのむろつみ)」と呼ばれていた。
名前は、古代中国で外国との交渉をつかさどった役所「鴻臚寺」に由来する。鴻臚館は平安京・難波・筑紫の3か所に置かれたが、遺構が確認されているのは福岡だけである。
鴻臚館は、唐や新羅からの使節を迎えるだけの施設ではなかった。遣唐使や遣新羅使、海外へ学びに行く僧たちが、渡海の旅支度を整える場所でもあった。
福岡の鴻臚館は、谷をはさんで南と北に施設が並んでいた。福岡市によれば、北館の東門は、日本に着いた人々が最初に通る門であり、日本から旅立つ遣唐使らを送り出す場所でもあった。
外交から交易へ、そして博多へ
福岡市の説明では、時代が下ると外交の機会は減り、鴻臚館を訪れる主役は唐や新羅の商人となって、交易の場へと変わっていった。発掘調査では、多量の瓦のほか、中国の越州窯青磁や長沙窯陶器、邢窯白磁、イスラム陶器、西アジアのガラス器などが見つかっている。福岡市は、貿易の拠点が博多に移るまで、鴻臚館は古代日本最大の国際交流の拠点だったとしている。
福岡市博物館によれば、11世紀の半ば、対外交流の舞台は鴻臚館から博多へ移った。博多には中国・宋から来た人々が「唐房」と呼ばれるチャイナタウンを築き、さかんに交易を行った。
2024年には、博多で見つかった石積みの遺構が国の史跡に指定された。11世紀後半から12世紀前半のもので、約70メートルにわたって確認され、港湾施設と考えられている。福岡市は、これを鴻臚館に代わる新たな貿易拠点となった「唐房」と一体的に築かれたものとし、貿易陶磁器や、日宋貿易の主要な輸出品だった硫黄が出土したことを紹介している。
よみがえった二つの遺跡
大宰府跡は1921年に史跡に、1953年に特別史跡に指定された。九州歴史資料館は、1968年に始まった大宰府史跡の発掘調査と研究を今も続けている。2015年には、大宰府史跡を含む文化財が「古代日本の『西の都』~東アジアとの交流拠点~」として日本遺産に認定された。
鴻臚館の場所については、長く諸説があった。九州大学の教授が『万葉集』や古地図、出土した瓦などの検討から、のちの福岡城内にあたる福崎を唱え、それが定説となっていた。
1987年12月、平和台野球場の改修工事に伴う発掘調査で鴻臚館に関わる遺構が見つかり、この推定の正しさが証明された。2004年に国史跡となり、福岡市は、国史跡の福岡城跡と重なる、全国的にも珍しい二重指定の史跡になったとしている。
訪れられる場所
大宰府政庁跡は、発掘調査の成果にもとづいて建物の配置を地面に示した史跡公園として整備され、広く公開されている。近くの観世音寺は、661年に筑紫で亡くなった母・斉明天皇をとむらうために天智天皇が建立を願った寺で、746年に完成した。国宝の梵鐘が残る。
水城跡は、今では市民の身近な緑地帯となっている。大野城跡には遊歩道が整えられ、石垣や土塁、礎石建物の跡を間近に見ることができる。
福岡市の鴻臚館跡は舞鶴公園の中にあり、史跡内の鴻臚館跡展示館では出土品の一部を展示している。展示館は展示のリニューアル工事のため2026年10月1日に休館に入り、福岡市は2026年9月の時点で、2027年3月下旬に再開する予定としていた。福岡市は北館東門の復元を進め、完成した東門の期間限定の特別公開を2026年10月17日に始めた。公開は11月8日までで、その後は周辺工事のため再び閉鎖するとしていた。訪れる前に、公式サイトで最新の状況と開館時間を確認してほしい。

出典
- 市内の指定文化財 史跡Dazaifu City
- 大宰府跡Agency for Cultural Affairs (Cultural Heritage Online)
- 大宰府史跡紹介Kyushu Historical Museum (Fukuoka Prefecture)
- 水城跡Agency for Cultural Affairs (Cultural Heritage Online)
- 鴻臚館跡Fukuoka City (Fukuoka City Cultural Properties)
- 鴻臚館 北館東門 工事途中の様子を特別公開します(令和8年4月24日 報道発表資料・参考資料)Fukuoka City (Economy, Tourism and Culture Bureau, Historic Site Development and Utilization Section)
- 鴻臚館 北館東門 特別公開しますFukuoka City (Economy, Tourism and Culture Bureau, Cultural Properties Utilization Section)
- 鴻臚館跡展示館 一時休館のお知らせFukuoka City (Economy, Tourism and Culture Bureau, Cultural Properties Utilization Section)
- 常設展示Fukuoka City Museum
- 中世の国際貿易都市博多の起点となった港湾施設 ―国史跡「博多遺跡」の指定について―Fukuoka City (Buried Cultural Properties Division)
- 博多遺跡Agency for Cultural Affairs (Cultural Heritage Online)
