長崎の港には、かつて人の手で築かれた扇形の島があった。長崎市は、出島を、1641年から1859年にオランダ商館が閉じられるまでの約218年間、西欧に開かれた日本で唯一の窓だったとしている。
この記事では、出島がなぜ築かれたのか、オランダ人がそこでどのように暮らし、貿易をしたのか、そして島がどのように姿を消し、いま復元されつつあるのかをたどる。
ポルトガル船と新しい港
天文12年(1543)に種子島を通じて鉄砲が伝わり、天文18年(1549)にキリスト教が伝えられると、各地の大名は貿易や信仰のためにポルトガル船の入港を求めるようになった。ポルトガル船は生糸や絹織物、羅紗(毛織物)、砂糖などをもたらし、日本からは主に銀を運び出した。
天文19年(1550)、ポルトガル船が平戸に入港した。長崎市によれば、これが現在の長崎県内に入港した最初のヨーロッパの貿易船である。その後ポルトガル人は、横瀬浦、福田、口之津へと貿易の拠点を移していった。
元亀元年(1570)、大村純忠は長崎をポルトガル船の来航地に定めた。翌元亀2年(1571)、ポルトガル船1隻と、ポルトガルが借りた唐船1隻が入港し、これと前後して最初の6つの町がつくられた。
純忠はのちに長崎の町をイエズス会に寄進し、長崎は教会領となった。長崎歴史文化博物館によると、長崎は「小ローマ」と称されるほどになった。
天正15年(1587)、豊臣秀吉は宣教師追放令を出し、のちに長崎を没収して直轄地とした。江戸幕府は慶長17年(1612)に直轄地で、翌慶長18年(1613)には全国でキリスト教を禁じ、取り締まりはしだいに厳しくなっていった。
ポルトガル人のための島
幕府は、キリスト教の布教を防ぐため、それまで町なかに住んでいたポルトガル人を一つの島に集めることにした。寛永11年(1634)に工事が始まり、寛永13年(1636)に出島が完成した。費用を出したのは、「出島町人」と呼ばれる長崎の有力な町人25人である。
その形から、出島は「扇島」とも呼ばれた。出島の公式サイトは、海の中に島をつくるという発想、工事の設計や監督にあたった人物、土木技術の詳細は、今も分かっていないとしている。
ポルトガル人が出島にいた期間は短かった。寛永14年(1637)の島原・天草一揆のあと、幕府はポルトガルへの警戒を強め、寛永16年(1639)にポルトガル人の来航を禁じた。完成したばかりの島は無人となった。
平戸から来たオランダ人
日本とオランダの交流は、慶長5年(1600)、オランダ船デ・リーフデ号が豊後(今の大分県)の海岸に漂着したことに始まる。慶長14年(1609)にはオランダ船2隻が来航し、幕府の許可を得て平戸にオランダ商館が開かれた。平戸には1613年から1623年まで、イギリス商館も置かれていた。
寛永17年(1640)、大目付の井上政重は、1639年に建てられた倉庫にキリストの生誕にちなむ西暦の年号が記されていることを理由に、平戸の商館の建物を壊すよう命じた。
出島への引っ越しは寛永18年5月17日(旧暦)に行われた。長崎市は、商館長マクシミリヤン・ルメールの日記にもとづき、これを1641年6月25日としている。オランダ人たちは日の出のころに着くと、自分たちの部屋を決め、家主である25人の出島町人に部屋の修繕を頼み、午後には奉行所へあいさつに出向いた。
島の暮らしと貿易
オランダ商人は出島の中に住まわされ、自由な出入りは許されなかった。表門では番人が出入りする人を改め、日本側では、出島町人から選ばれた出島乙名が貿易の事務や島の管理を担った。
島でいちばん大きな建物は、商館長(カピタン)の住まいと事務所を兼ねたカピタン部屋である。日本の役人や大名が出島を訪れたときには、もてなしの場としても使われた。
寛永18年(1641)から、幕府はオランダ人に、宣教師やポルトガルなどカトリックの国々についての情報を伝えることも義務づけた。通詞が商館長から聞き取った内容を翻訳し、「風説書」と呼ばれるこの文書は江戸へ送られたといわれている。
1621年から1847年までの227年間に、日本に来たオランダ船は延べ700隻を超える。多くはバタビア(今のジャカルタ)を出て、旧暦の6月か7月に入港した。
江戸時代の初めの主な輸入品は生糸、輸出品は銀だった。中期以降は羅紗、ビロード、胡椒、砂糖、ガラス製品、書籍などが輸入され、銅、樟脳、陶磁器、漆製品などが輸出された。
幕府は、この貿易への制限をしだいに強めた。正徳5年(1715)にはオランダ船の入港を年2隻に、寛政2年(1790)には年1隻に限った。オランダ東インド会社そのものも、1799年に解散した。
出島を通って入ってきたのは品物だけではない。国立国会図書館によれば、享保5年(1720)、幕府はキリスト教に関係のない書物の輸入を緩め、オランダ語に訳された西洋の学術書が入ってくるようになった。蘭学への関心が高まり、安永3年(1774)には西洋の解剖書を訳した『解体新書』が刊行された。
「鎖国」という言葉はどこから来たのか
出島の公式サイトは、1630年代の幕府の命令を「鎖国令」と呼び、1641年のオランダ商館の移転を「鎖国体制完成」としている。
ただし、「鎖国」という言葉そのものは後の時代のものである。ドイツ人の医師ケンペルは、元禄3年(1690)に出島のオランダ商館の医師として来日した。
享和元年(1801)、長崎のオランダ通詞・志筑忠雄が、ケンペルの日本についての本から一つの論文を訳して『鎖国論』と題した。国立国会図書館は、ここで「鎖国」という翻訳語が生まれたとしている。
解釈が分かれる
この時代をどう表すかについては、研究者の見方も一つではない。立教大学名誉教授の荒野泰典は1983年から、近世の日本は文字どおり国を閉ざしていたのではないと論じてきた。荒野によれば、日本はヨーロッパとの関係こそオランダに限ったが、「四つの口」を通じて周りの国や地域との関係を保っており、「鎖国」と「開国」を対にした考え方が日本の社会に定着したのは1890年代以後のことだという。
唐人屋敷
長崎の外国人の居住地は、出島だけではなかった。寛永12年(1635)から中国の船は長崎にしか入れなくなり、来航した唐人たちは町のあちこちの家に泊まっていた。貿易の制限にともなって密貿易が問題となり、密貿易やキリスト教の広まりを心配した幕府は、幕府の薬園の土地に堀と塀で囲んだ屋敷を築き、元禄2年(1689)に完成させた。
この唐人屋敷は約9,400坪の広さで、一度に2,000人前後を収容できた。当時の「唐人」とは、中国をはじめ東アジアや東南アジアから来た外国人のことである。
元禄11年(1698)の火事で町に預けていた貨物が焼けたことをきっかけに、倉庫のための人工の島「新地蔵所」がつくられた。ここが現在の新地中華街である。
商館の終わりと島の復元
安政6年(1859)、オランダ商館は廃止されて領事館となり、慶応2年(1866)には出島は外国人居留地に組み込まれた。
明治18年(1885)に始まった中島川の流れを変える工事で出島の北側が約18メートル削られ、明治37年(1904)の港湾改良工事で、扇形の島は完全に姿を消した。
出島は大正11年(1922)に国の史跡に指定された。長崎市は昭和26年度(1951)から整備の計画に取りかかり、平成8年度(1996)から本格的な復元整備を進めている。
2000年、2006年、2016年に、1820年ごろの姿を再現した建物が順に完成し、2017年には川に出島表門橋が架けられた。長期計画では、四方を水面に囲まれた扇形の島をよみがえらせることを目指している。
訪れられる場所
出島(国指定史跡、長崎市)* 復元された蔵や住まい、カピタン部屋などを見学できる。年中無休で、路面電車の「出島」電停から歩いてすぐ。開場時間や料金は公式サイトで確認してほしい。
長崎歴史文化博物館* 常設展で、出島と蘭学、唐人屋敷の模型などを紹介している。敷地内には長崎奉行所の一部が復元されている。
平戸オランダ商館(平戸市)* 出島の前の商館の跡は国の史跡で、1639年に建てられた倉庫が2011年に復元された。
出典
- 出島の歴史Nagasaki City (Dejima official site)
- 平戸から出島へお引っ越し(ナガジン)Nagasaki City (Nagazine)
- 長崎開港450周年記念展 ーふたつの開港ーNagasaki Museum of History and Culture
- 平戸オランダ商館の歴史Hirado Dutch Trading Post (Official site)
- 唐人屋敷の歴史Nagasaki City
- 学芸員コラム Vol.15Nagasaki City (Nagasaki Studies Institute)
- 復元整備事業 ― 新しい出島の誕生 ―Nagasaki City (Dejima official site, operated by the Dejima management office as designated manager)
- 建物の紹介Nagasaki City (Dejima official site, operated by the Dejima management office as designated manager)
- ご利用情報Nagasaki City (Dejima official site, operated by the Dejima management office as designated manager)
- 歴史探訪【出島跡】Nagasaki Customs (Ministry of Finance)
- オランダを通して世界をのぞく(電子展示会「知識を世界に求めて―明治維新前後の翻訳事情―」)National Diet Library
- Part 2: View by Topics (Japan-Netherlands Exchange in the Edo Period)National Diet Library
- 近世的国際関係の再編と鎖国・開国言説(第16回国際日本学シンポジウム 報告要旨)Ochanomizu University (16th International Symposium on Japanese Studies)
- 歴史文化展示ゾーン(常設展)Nagasaki Museum of History and Culture
