Japan Through Time

高知県 · 1874年 · 近代 · 明治時代

Kōchi and the Freedom and People's Rights Movement

自由民権運動と高知

1874年の民撰議院設立建白書から立志社、自由党まで、土佐は国会の開設と憲法を求めた運動の中心地だった。

約6分 · 出典 7件

高知市立自由民権記念館の正面。下部が石張り、上部が白い壁で、屋根に灯籠のような小塔が二つある建物。手前に冬枯れの木と生け垣、赤い植え込みの中に「自由民権記念館」と刻まれた石の看板がある
高知市桟橋通の高知市立自由民権記念館(2008年2月撮影)。663highland, 2008-02-29 · Wikimedia Commons · Creative Commons Attribution 2.5 Generic · 出典 · 縮小して掲載

1870年代から1880年代にかけて、日本の各地で、国民が選ぶ議会(国会)と憲法を求める声が高まった。これが自由民権運動である。

その中心にあったのが、かつての土佐藩、今の高知だった。土佐の結社・立志社を中心とした運動は全国に広がり、「自由は土佐の山間より出づ」といわれた。

高知市には、この歴史を専門に扱う高知市立自由民権記念館がある。記念館は、自らを土佐の自由民権運動と近代を専門とする歴史博物館と説明している。この記事では、記念館の資料と国立国会図書館の電子展示をもとに、運動の歩みをたどる。

新政府に入った土佐の武士

高知市が「自由民権運動の父」と紹介する板垣退助は、1837年、土佐藩の上級武士の家に生まれた。記念館によれば、生年月日は天保8年4月17日(旧暦)で、戊辰戦争の途中で改めるまでは「乾」の姓だった。

高知市の紹介によれば、板垣は1868年の戊辰戦争の功績で家老格に出世し、明治新政府では参議となった。1873年、西郷隆盛らとともに征韓論を主張して敗れ、翌1874年に土佐へ帰った。

記念館は、それより前の板垣の考え方にも触れている。1870年、高知藩の大参事として藩政改革にあたった板垣は、「人間は階級によらず」「人々をして自由の権を与へ」と記した。

ただし同じ文書の後半には、士族を低め庶民を高めると誤解してはならないという趣旨の言葉もあり、記念館は、万人平等の思想を貫いたものとは言えないとしている。それでも当時としては革新的な考え方だったと思われる、というのが記念館の見方である。

1874年の建白書

1874年1月12日、板垣は後藤象二郎・副島種臣・江藤新平らとともに「愛国公党」を結成した。国立国会図書館は、これを日本最初の政党としている。同月17日、そのメンバーは、立法のことを審議する政府の機関である左院に「民撰議院設立建白書」を提出した。

記念館によれば、建白書は一部の官僚が独断で政治を行う「有司専制」を激しく非難し、このままでは国家が崩壊する、それを防ぐには民撰議院を設立するほかないと述べた。そして、人民が政治に参加する権利の根拠を、納税の義務に求めた。

翌日、建白書の全文が、イギリス人ジョン・レディー・ブラックの新聞『日新真事誌』に掲載された。記念館はこれを自由民権運動の出発点とし、国立国会図書館も運動のきっかけとなったと説明している。なお国立国会図書館によれば、愛国公党そのものは数か月後に消滅した。

高知の立志社

板垣は土佐に帰り、同志とともに立志社をつくった。記念館によれば、1874年4月10日の発会の会議は、集まった人が少なく流会となった。翌月13日、士族と平民が参加する集会が開かれた。

創立当初の立志社は、九反田の開成館跡に事務所を置いた。主に士族の生活を支える授産・救済の活動を行い、子弟の教育のために立志学舎という学校を設けた。初代社長は、戊辰戦争で板垣とともに戦った片岡健吉である。

1877年からは、立志社は本格的な民権運動を進めた。国立国会図書館によれば、この年に西南戦争が起こると、立志社の中には、これに呼応して兵を挙げようとする一派が生まれた。一方、植木枝盛らの武力蜂起に反対する一派は、天皇への上申書として「立志社建白」をまとめた。

建白書は政府の失政を批判し、民撰議院の設立と立憲政体の確立を求めるものだった。1877年6月9日、片岡健吉が京都の行在所に提出したが、数日後に「不遜」であるとして却下された。

国立国会図書館によれば、西南戦争が終わると武力による反政府活動はおさまり、言論による運動が活発になった。立志社は、かつて板垣が設立した政治結社「愛国社」を再興した。

1880年3月の大会では、各地の代表が集まって国会期成同盟が生まれた。片岡健吉と河野広中がその請願書を政府に提出しようとしたが、受け取られなかった。

1880年11月、国会期成同盟は、参加する各団体が憲法の案を持ち寄ることを決めた。記念館によれば、植木枝盛は1874年に板垣の演説を聞き、翌年立志社に入った。国立国会図書館によれば、植木は立志社の憲法起草委員で、その案はアメリカやスイスにならった連邦制の国家を構想し、人民の自由と権利をきめ細かく保障するもので、自由主義的・民主主義的な性格が見られるという。

懇親会、新聞、取りしまり

高知では、運動は人々が集う場でもあった。記念館によれば、県内各地でたびたび懇親会が開かれ、1880年から1884年がその最盛期だったといわれる。演説や旗奪い、狩りなどが行われ、「自由」の文字や結社の名を書いた旗を持った人々が大勢参加した。

1881年、北海道開拓使の官有物払い下げ問題で世論が沸き立った。国立国会図書館によれば、政府は払い下げを中止して大隈重信を免官とし、1890年に国会を開くという詔書を出した。同じ年、板垣は新たに結成された自由党の党首となった。

記念館によれば、板垣がこの知らせを受けたのは、東北地方への遊説の途中、1881年10月13日に新潟で演説会をしている最中だった。板垣は周りの人に「前途はなお遠い。喜ぶなかれ」と言ったそうである。

政府は言論の取りしまりも進めた。記念館は、1875年の讒謗律と新聞紙条例、そして政治集会や政治結社に警察への届け出と認可を求めた1880年の集会条例を挙げている。

『高知新聞』が社説「欽定憲法ノ不善ナルヲ論ズ」の掲載を理由に1882年7月14日に発行禁止となると、民権家たちは同月16日に「高知新聞葬」を行った。記念館によれば、名簿に記された会葬者は2,727人にのぼった。

「板垣死すとも自由は死せず」

1882年4月6日、岐阜の中教院で開かれた会に出席した板垣は、その帰りに短刀を持った男に襲われ、けがを負った。高知市の紹介によれば、このとき口にした「板垣死すとも自由は死せず」の一言が新聞などで報じられ、この言葉は自由民権運動の合言葉となり、板垣は一躍運動の英雄となった。

解釈が分かれる

ただし記念館は、この有名な言葉について慎重である。実際に何と言ったかには様々な説があり、真偽は分からないという。少なくとも当時の政府が残した記録には、板垣がこの言葉を発したと記されている。

立志社の解散とその後

記念館によれば、立志社は1882年に政治の分野の働きを海南自由党に移して親睦団体となり、1883年3月20日に解散した。高知市は、運動が曲折を経ながらも、1889年の憲法発布と国会開設への道を開いたとしている。

板垣はその後、伊藤博文内閣や大隈重信内閣で内務大臣を務めた。1900年に政界を退くと、晩年を社会改良の運動にささげ、1919年に数え83歳で亡くなった。

訪れられる場所

高知市桟橋通にある高知市立自由民権記念館では、土佐の自由民権運動の歩みや、運動に関わった人々を、写真・文献・風刺画・模型・映像などで紹介している。開館時間は記念館の公式の案内で確認してほしい。

高知市中央公園には「立志社跡」の石碑がある。記念館の案内では、1874年に立志社と立志学舎が置かれた場所として、高知市指定史跡「開成館跡」の東九反田公園も紹介されている。五台山の西側の登り口には、「新聞の葬式」を解説した看板がある。

出典

  1. 板垣退助ブック 〜言論で国を動かそうとした男〜(解説)Kōchi City Freedom and People's Rights Museum
  2. 自由民権運動の父 高知市立自由民権記念館(広報)Kōchi City
  3. 1-9 民撰議院設立の建白(史料にみる日本の近代)National Diet Library
  4. 1-12 立志社の国会開設請願(史料にみる日本の近代)National Diet Library
  5. 1-13 国会期成同盟の請願(史料にみる日本の近代)National Diet Library
  6. 1-14 植木枝盛の憲法構想(史料にみる日本の近代)National Diet Library
  7. 2-3 明治14年の政変(史料にみる日本の近代)National Diet Library