伊勢神宮は、正式には「神宮」といい、内宮と外宮を中心とする125の宮社からなる。江戸時代には、全国から人びとがこの地を目指した。三重県総合博物館は、伊勢参りがもたらした人・モノ・文化の交流を、日本の歴史上ほかに例がないものとしている。
ある年には、突然の集団参詣の波が伊勢へ押し寄せた。三重県は、その代表的な年として1650年・1705年・1771年・1830年を挙げる。1830年には約500万人が伊勢を訪れたとされる。
皇室の祖神をまつる宮
内宮(皇大神宮)は、皇室の祖先の神と仰がれる天照大御神をまつる。外宮(豊受大神宮)は、天照大御神の食事をつかさどる神として崇敬される豊受大御神をまつる。
神宮が伝える鎮座の歴史は、『日本書紀』の記述に沿っている。倭姫命は、永遠に神事を続けられる場所を求めて伊賀・近江・美濃などの国々をめぐり、伊勢の五十鈴川の川上に宮を建てた。
20年に一度、社殿や装束・神宝をすべて新しくし、隣の敷地の新しい宮へ神に遷ってもらう。神宮によれば、この式年遷宮は690年から続き、第62回は2013年に行われた。
三重県によれば、中世にはこの20年ごとの制が崩れ、室町時代には120年以上も遷宮が行われなかった。江戸時代には徳川幕府が費用を負担し、20年ごとの遷宮が再び行われるようになった。
天皇の奉幣から庶民の参拝へ
古くは、天皇以外の者が神宮に供え物をささげることは禁じられていた。ただし神宮によれば、参拝まで禁じられていたわけではない。天皇の使いのお供として伊勢に来た人びとが都に戻って神宮のことを語り伝え、しだいに庶民にも知られるようになったと考えられている。
神宮は、承平4年(934年)の神嘗祭に多くの人が参じたという記録を挙げる。ただしこれは、勅使の随行者が大勢いたことを示すものである。
鎌倉時代の日記には、1287年の外宮の遷宮に「参詣人幾千万なるを知らず」とある。神宮はこれを、遅くとも鎌倉時代中頃には多くの参拝者がいたしるしと見ている。
御師―案内人であり、宿の主であり、使者でもあった人びと
伊勢信仰を全国に広めるうえで大きな役割を果たしたのが、御師(おんし。「おし」とも)である。神宮の説明では、御師は人びとの願いを神に取り次ぐ役目を担い、全国に受け持ちの地区と檀家をもっていた。
御師は毎年檀家をまわってお神札を配り、祈祷を行った。檀家が伊勢に来ると、自分の屋敷に泊め、内宮・外宮の参拝を案内し、御神楽を行った。
三重県によれば、御師はお神札とともに伊勢暦も土産として配った。こうして伊勢暦は全国に広まった。
神宮によれば、江戸時代には2,000人あまりの御師が活躍し、その屋敷は外宮の周辺だけでも600軒あったともいわれる。檀家の数を調べた帳簿には4,218,584もの檀家が記され、神宮はこれを当時の総戸数の89%にあたるとしている。
解釈が分かれる
伊勢市立伊勢図書館の資料は伊勢全体の数として、江戸時代中頃には800軒もの御師の屋敷があったといわれている、としている。どちらも「いわれている」数で、正確に数えたものではない。
積み立てて旅に出る
三重県によれば、ふだんは旅などできない人びとでも、伊勢参りなら旅に出る大義名分が立った。人びとは町内や仲間うちで講をつくってお金を積み立て、代表を順番に送り出した。
講の記録や伊勢参りの旅日記は、各地に数多く残っている。宇治や山田の町には旅人のための施設が整い、芝居小屋もあった。伊勢は、江戸・京都・大坂の三都に次ぐ歌舞伎の盛んな土地となった。
三重県によれば、日永の追分から内宮前の宇治橋までの伊勢街道(参宮街道)は、江戸時代には東海道に次いで往来が多い街道といわれ、江戸など東国の人びとがこの道を通った。
京都や西国の人びとは、鈴鹿の関から津に至る伊勢別街道を通った。初瀬街道や和歌山街道なども、全国からの参宮客でにぎわった。幕末の参宮客は、年におよそ40万人といわれる。
街道沿いには常夜灯が建てられ、中には伊勢の両宮の名を刻んだものもあった。津市のある常夜灯を寄進したのは武州岩槻(今の埼玉県)の木綿問屋たちで、伊勢別街道の常夜灯には松前江指や箱館といった北海道の人の名も見える。
おかげ参りの大波
伊勢参りは江戸時代を通じて盛んだったが、ある特定の年には熱狂的な群参となった。三重県はその代表的な年として1650年・1705年・1771年・1830年を挙げる。ほぼ60年ごとに起きている。
なぜこうした群参が起きたのかは、はっきりしないと三重県はしている。
「おかげまいり」という呼び名は1771年の群参から広まり、それ以前は「ぬけまいり」と呼ばれていた。神宮のお札が空から降ったといううわさが立つと、子は親に断りなく、妻は夫の許しなく、奉公人は主人に無断で伊勢へ向かった。
参詣者は白衣に菅笠の姿で、集団をつくってのぼりを立て、歌い踊りながら歩いた。十分な旅費がなくても、道筋の家々が食べ物や泊まる場所を与えてくれた。人びとはそれを神のおかげとし、参詣を妨げると天罰が下るとされた。
三重県は、山田三方会合所の記録や本居宣長の随筆『玉勝間』をもとに、1705年の群参は50日間で362万人に達したとしている。1771年の人数ははっきりしないが、宮川の渡しを渡った人数から見て200万人を超えたといわれる。
1830年―6人に1人
三重県総合博物館によれば、1830年の群参の様子は、当時たくさんの書物や刷り物で全国に伝えられた。博物館によれば、この年は前年に式年遷宮があり、前回の群参からちょうど60年にあたったため、おかげ参りが起こるのではないかという期待が高まっていた。
1832年に刊行された『御陰参宮文政神異記』によれば、群参は文政13年3月20日(旧暦)、徳島の子どもら20〜30人の抜け参りから始まった。8月末までに、伊勢を訪れた人は約500万人に達した。
人数は記録によって異なる。博物館は、陸路で宮川の渡しを渡った人が約486万人、海路で着いた人が10万人以上、1日で最も多かった日は148,000人という記録を紹介している。
当時の日本の人口は3,000万人を少し超える程度と推計されている。博物館はここから、約半年の間に人口の6人に1人が伊勢を訪れたことになると計算している。ただし、正確に数えたわけではないだろうとも書き添えている。
伊勢の人、箕輪在六が自らの見聞や聞き取りをもとにまとめたこの本からは、参詣者の迎えられ方もわかる。柄杓はおかげ参りの参詣者の印で、これを1本持っていれば、たとえ無一文でも道中でさまざまな施しを受けられた。
外宮に着いた参詣者は、北御門橋のわきに柄杓を置いていくのが習わしだった。施行所の図には、町の人びとが銭や、伊勢で発行された紙幣「山田羽書」と思われるものを配る様子と、積み上げられた米俵が描かれている。船で1万俵あまりの米が運び込まれ、食料が足りなくなることはなかったと本は記す。
三重県は、諸国の人びとの出会いと交流が、稲の品種の交換や伊勢歌舞伎の振興など、さまざまな形で全国の文化に影響を及ぼしたとみている。
江戸時代のあと
1871年、明治政府は御師の制度を廃止した。神宮によれば、それでも人びとの崇敬の心は変わらなかった。今も神宮の周辺では北海道から九州までのナンバープレートの車が見られ、世界中から訪れる人も年々増えている。
訪れられる場所
伊勢市の伊勢神宮。五十鈴川にかかる宇治橋を渡って参る内宮と、外宮がある。三重県総合博物館によれば、外宮の北御門を入り、火除橋を渡ってすぐ左の石垣が一部くぼんでいるところが、江戸時代の参詣者が柄杓を置いていった場所とされている。
神宮の博物館である神宮徴古館と、せんぐう館では、神宮と式年遷宮にかかわる資料を見ることができる。津市の三重県総合博物館(MieMu)は、伊勢参りがもたらした交流を基本展示の大きなテーマのひとつとしている。
伊勢市の丸岡宗大夫邸は国の登録有形文化財で、伊勢図書館によれば、もとの場所に残る唯一の御師の屋敷である。公開日や開館時間は、訪れる前に公式サイトで確認してほしい。
出典
- 神宮についてJingū (Ise Grand Shrine, official site)
- 神宮の歴史Jingū (Ise Grand Shrine, official site)
- 式年遷宮Jingū (Ise Grand Shrine, official site)
- 伊勢神宮、遷宮制度の衰退と復興(県史あれこれ)Mie Prefecture (三重県環境生活部文化振興課 歴史公文書班, 県史あれこれ)
- 人気の高かった「伊勢暦」(県史あれこれ)Mie Prefecture (三重県環境生活部文化振興課 歴史公文書班, 県史あれこれ)
- 御師について調べよう(ふるさと文庫 郷土資料案内)Ise City Ise Library (伊勢市立伊勢図書館)
- 盛況だった伊勢歌舞伎(県史あれこれ)Mie Prefecture (三重県環境生活部文化振興課 歴史公文書班, 県史あれこれ)
- 参宮客を見守り続けた常夜灯(県史あれこれ)Mie Prefecture (三重県環境生活部文化振興課 歴史公文書班, 県史あれこれ)
- 多くの民衆伊勢へ「おかげまいり」(県史あれこれ)Mie Prefecture
- 三重県の歴史年表(江戸時代)Mie Prefecture
- 御陰参宮文政神異記Mie Prefectural Museum (MieMu)
