出雲大社は島根県出雲市大社町に鎮座する。島根県によれば、「縁結びの神様」として知られ、年間約200万人の参拝客が訪れる。
島根県立古代出雲歴史博物館によれば、島根は「神々の国」「神話のふるさと」とも呼ばれる。その過去には、性格の違う3つの手がかりから近づくことができる。
8世紀に書き記された神話、733年に完成した出雲国の記録『出雲国風土記』、そして弥生時代の青銅器から、中世の本殿のものとみられる柱までの、地中から見つかったものである。この記事では、この3つを順に、区別しながら見ていく。
神話―大国主大神と壮大な御殿
出雲大社の御祭神は大国主大神である。出雲大社が伝える神話では、大国主大神は神代の昔、人々とともに国土を開拓し、農耕・漁労や医薬の法などを授けた。
同じく出雲大社の説明によれば、大国主大神はつくり上げた国土を、皇室の祖先である天照大御神に「国譲り」し、目に見えない世界を治める神として、壮大な御殿に鎮まった。
出雲大社は、この御殿の壮大なさまが『古事記』(712年)と『日本書紀』(720年)に記されていると説明する。出雲大社のまとめでは、太く長い柱は地下の岩盤に届くほど深く突き固められ、屋根の千木はたなびく雲を貫くほどであったという。
これらは神話である。出雲大社がいつ、なぜこの地に創建されたのかについて、島根県立古代出雲歴史博物館は、鎮座にまつわるさまざまな神話伝承をひもとき、歴史地理学や考古学の成果とあわせて探っている。
記録―『出雲国風土記』
713年、朝廷は諸国に、特産物や土地の様子、地名の由来、言い伝えなどを記録して報告するよう命じた。こうしてつくられたのが「風土記」である。島根県立古代出雲歴史博物館によれば、出雲国では733年(天平5年)に『出雲国風土記』が完成した。
島根県の解説によれば、編集の責任者は、国造で意宇郡の大領を兼ねた出雲臣広嶋、執筆者は神宅臣金太理である。国全体の記述に続いて郡ごとに、郷や里、寺院、神社、山・川、産物などが記され、道や国境、防衛に関する記述もある。
島根県によれば、風土記が今に残るのは常陸・出雲・播磨・豊後・肥前の5か国だけで、その大半は一部しか残っていない。県は、『出雲国風土記』をほぼ完全な形で伝わる唯一の風土記としている。島根県古代文化センターは30年以上にわたって研究を続けており、風土記に登場する場所は県のウェブ地図で見ることができる。
風土記には多くの神話が記されており、博物館はそれを地域色豊かな神話として紹介している。博物館によれば、『出雲国風土記』を代表する神話は「国引き神話」である。八束水臣津野命が各地の土地の余りを引き寄せて縫いつけ、島根半島の独特な地形ができたと語るもので、博物館はここに日本海を舞台とした壮大な交流をうかがっている。
風土記には、出雲大社にまつわる独自の話もある。出雲大社のまとめによれば、風土記は大国主大神を「天の下造らしし大神」とたたえ、その住まいを多くの神々が集まって築いたので、この地を「キヅキ」と名付けたと記す。出雲大社は、かつて杵築大社と呼ばれていた。
地中から―弥生時代の青銅器
1984年、荒神谷で農道建設の前に行われた調査で、銅剣358本が見つかった。島根県によれば、当時、全国で出土していた銅剣は300本余りであった。
翌年には近くから銅鐸6個と銅矛16本が出土した。県は、この発見が日本の弥生時代の青銅器研究の見直しを迫ったとしている。
1996年10月には、加茂岩倉で農道建設の工事中に、39個の銅鐸がまとめて見つかった。荒神谷はここから北西に約3キロメートルの位置にある。文化庁によれば、銅鐸はいずれも弥生時代中期の製作で、弥生時代中期から後期に、当時の集落から離れた谷の斜面の穴に、基本的には大小一組の入れ子の形で埋められたと考えられている。
12個の銅鐸には、荒神谷の銅剣にも見られる「×」印が刻まれている。同じ鋳型で作られた銅鐸は、鳥取・兵庫・奈良・和歌山・福井でも見つかっている。文化庁は、多くは近畿地方で作られたと考えられるが、一部は出雲で作られた可能性もあるとしている。
文化庁は、これほど多くの銅鐸が一度に埋められた状況が分かったのは初めてであり、銅鐸の機能や使い方・廃棄の仕方、生産と流通のあり方を考えるうえできわめて重要だとしている。
地中から―巨大な柱
出雲大社の伝えによれば、本殿の高さは古くは32丈(約96メートル)、その後は16丈(約48メートル)あったという。宮司家の千家家には、その当時の平面図といわれる「金輪御造営差図」が残る。3本の材木を合わせて1本の柱とし、金輪で束ねる構造が描かれている。
2000年から2001年にかけての境内の発掘で、杉の大木3本を1組にした直径約3メートルの柱が、3か所で見つかった。島根県立古代出雲歴史博物館によれば、そのうち棟を支える宇豆柱は、境内の地下を流れる豊富な地下水のおかげで残った。
柱の配置や構造は「金輪御造営差図」と似ていた。博物館は、柱材の科学分析や、考古資料・絵画・文献記録などの調査から、宇豆柱は1248年(宝治2年)に造営された本殿を支えていた柱である可能性が極めて高くなったとしている。
解釈が分かれる
その本殿がどれほどの高さだったかは、別の問題である。島根県は、この発見を、高さ約48メートルのかつての高大な神殿の実在を示すものとしている。博物館は宇豆柱の説明で年代を示しているが、高さには触れていない。出雲大社は、伝承されてきた巨大な本殿の姿が現実のものとなったと受け止めている。
今も祈りの続く社
出雲大社によれば、中世には本殿の規模を縮小して造営されるようになった。1609年(慶長14年)の本殿は、千木までの高さが約19.8メートルであった。1667年(寛文7年)には高さ8丈(約24メートル)の本殿が造営され、およそ400年ぶりに本来の形式が復活した。
現在の本殿は1744年(延享元年)の建築である。島根県によれば、国宝に指定され、高さは約24メートルで、神社建築としては日本随一の高さである。最近の修造では檜皮の屋根がふき替えられ、2013年5月10日に大神が本殿に戻る本殿遷座祭が行われた。
解釈が分かれる
そもそもなぜ出雲に大きな社が築かれたのかについては、見方が分かれている。島根県の広報誌『フォトしまね』の報告によれば、県が東京で開いたシンポジウムで、立正大学の三浦佑之教授は、古代出雲は『古事記』や『日本書紀』に書かざるを得ないほど繁栄していたと考察し、日本海側には高く大きな神社を造営する独自の文化があったことを強調した。県文化財課の丹羽野裕課長は、大量の青銅器の出土から古代出雲を日本を代表する勢力とし、ヤマト王権への影響力が杵築大社の創建につながったと推測した。
解釈が分かれる
同じシンポジウムで、駒澤大学の瀧音能之教授は、杵築大社が高層だった理由について、灯台のような役割があったとの持論を述べた。東洋大学の森公章教授は、ヤマト王権が古代出雲を地方勢力の代表と位置付けて杵築大社を創建したとの考えを示した。
訪れられる場所
出雲大社によれば、2000年に見つかった古代の本殿の柱のうち、中央の心御柱は出雲大社の宝物殿に展示されている。
島根県立古代出雲歴史博物館は、出雲大社の東隣にある。中央ロビーには、発掘された柱のうち棟を支える「宇豆柱」が展示されている。博物館では、ともに国宝の荒神谷遺跡の青銅器と加茂岩倉遺跡の銅鐸、そして『出雲国風土記』の展示も見ることができる。
荒神谷遺跡は国の史跡で、27.5ヘクタールの史跡公園のなかにあり、2005年に開館した荒神谷博物館がある。加茂岩倉遺跡には、出土した銅鐸のレプリカや発見時の映像を展示するガイダンス施設がある。開館時間などは、それぞれの公式サイトで確かめてほしい。
出典
- 出雲大社(史跡)Shimane Prefecture
- 御遷宮の歴史Izumo Ōyashiro (official site)
- 中央ロビー展示「出雲大社境内遺跡出土の宇豆柱」Shimane Museum of Ancient Izumo
- 出雲国風土記の世界Shimane Museum of Ancient Izumo
- 解説(出雲国風土記)Shimane Prefecture
- 特集6 出雲国風土記シンポジウムを開催(フォトしまね200号)Shimane Prefecture
- マップonしまね「出雲国風土記登場地」の公開と「出雲国風土記ハンドブック」改訂版の刊行についてShimane Prefecture
- 荒神谷遺跡(山陰史跡探訪)Shimane Prefecture
- 加茂岩倉遺跡Agency for Cultural Affairs (Cultural Heritage Online)
- 加茂岩倉遺跡(山陰史跡探訪)Shimane Prefecture
- 出雲大社と神々の国の祭り(総合展示)Shimane Museum of Ancient Izumo (島根県立古代出雲歴史博物館)
- 青銅器と金色の大刀(総合展示)Shimane Museum of Ancient Izumo (島根県立古代出雲歴史博物館)
- 出雲神話回廊(神話シアター)Shimane Museum of Ancient Izumo (島根県立古代出雲歴史博物館)
- よくあるご質問Izumo Ōyashiro (official site)
