神奈川県の海辺の町・鎌倉は、東京から電車で1時間ほどの古都である。鎌倉市によれば、12世紀末に源頼朝がここに幕府を開き、19世紀中ごろまで続く武家政権の基盤が作られた。
鎌倉はまた、禅の中心地にもなった。建長寺や円覚寺は幕府の指導者によって開かれ、今も禅の寺として続いている。この記事では、海辺の拠点が都へと育ち、そこに禅が根づいていった歩みをたどる。
なぜ鎌倉だったのか
鎌倉と源氏の結び付きは、頼朝よりずっと前にさかのぼる。鎌倉市によれば、相模守だった源頼義が、源氏の氏神である京都の石清水八幡宮を勧請し、1063年に社殿を造営した。頼朝の父・義朝も、1145年には今の寿福寺のあたりに住んでいたという。
鶴岡八幡宮も、自らの始まりを同じように伝えている。頼義はまず八幡神を由比ヶ浜の辺りに祀った。八幡宮によれば、治承4年(1180年)、頼朝は鎌倉に拠点を構え、同じ年に先祖ゆかりの八幡宮を現在の場所に遷した。
八幡宮はまた、由比ヶ浜の海岸から八幡宮へ一直線に延びるおよそ2kmの参道・若宮大路が、京都の朱雀大路になぞらえて造られたと伝える。頼朝が鎌倉の街づくりの第一歩として自ら指揮をとり、御家人たちが土石を運んで築いたと伝えられている。
少しずつ形づくられた政権
解釈が分かれる
鎌倉幕府はいつ成立したのか。この問いに、ただ一つの答えはない。
解釈が分かれる
千葉県教育委員会の学習プリントは、成立時期にはいくつかの説があるとし、そのうち1185年説と1192年説の理由を問うている。解答例では、1185年説は守護と地頭を置いて各地に支配が及んだこと、1192年説は頼朝が朝廷から将軍に任命されたことを理由に挙げる。
解釈が分かれる
ニッポンドットコムの記事は、その歩みを順に整理している。1180年に頼朝が挙兵して鎌倉に入り、侍所を設けた。1184年には問注所と公文所が置かれた。記事によれば、東京大学史料編纂所の本郷和人教授は、1180年こそを始まりとみるべきだと主張している。
鎌倉市は、同じ時期をより簡潔に描く。幕府を開いた頼朝は、幕府の組織を整えるとともに、都市づくりを始めた。
海辺の拠点から都へ
鎌倉は山と海に囲まれている。鎌倉市によれば、周りの地域との行き来をよくするために、山を切り開いた「切通」が造られたと考えられており、それらは「鎌倉七口」に数えられる。その一つ、朝夷奈切通は、鎌倉と東京湾側の外港・六浦を結んだ。市によれば、『吾妻鏡』には、仁治2年(1241年)から仁治3年(1242年)にかけて、執権北条泰時の監督のもとで工事が行われたとある。
1232年(貞永元年)には、勧進上人の往阿弥陀仏が、由比ヶ浜の東端に港を築いた。文化庁によれば、その跡である和賀江島(史跡名は「和賀江嶋」)は、玉石を積んだ埠頭が海中に突き出たもので、現存最古の港湾施設である。
鎌倉市によれば、都市づくりがほぼ完成した1230年ころ、幕府は全盛期を迎えた。鎌倉は政治、軍事、外交、文化のあらゆる面で日本の中心地となった。
源氏が3代で絶えた後も、頼朝の妻・政子の実家である北条氏のもとで、京都をしのぐ事実上の首府であり続けた。最盛期には3万人もの人口を数えたといわれる。
武士の都の禅
鎌倉市は、鎌倉時代に生まれた新しい仏教の宗派のなかで、最も武士に受け入れられたのが禅宗だったと記す。宋から来日した名僧や、宋へ留学した日本の僧が、教えとともに建築、美術工芸、文学などの禅宗文化を広めた。市によれば、和賀江島を通じた宋や元との交易によって、禅宗、禅宗様の建築、仏像彫刻、彫漆などの中国文化が鎌倉にもたらされた。
源氏ゆかりの地に建つ禅寺もある。文化庁によれば、寿福寺は、頼朝の父・義朝が館を営んだ地に、北条政子が栄西を開山に招いて建立した寺である。
建長寺は、自らの始まりをこう伝えている。1253年、執権北条時頼が建長寺を創建し、1246年に来日していた中国の僧・蘭渓道隆を開山とした。
1255年に造られた梵鐘(国宝)には「建長禅寺」とある。寺によれば、建長寺は日本で最初に「禅寺」と称した、宋の臨済禅だけを修行する専門道場だった。
建長寺の説明では、諸堂はほぼ一直線に並び、中国・杭州の径山万寿禅寺にならった配置だった。ただし、今の堂の配置は創建当初の姿をそのまま伝えてはいない。寺によれば、最も盛んなころには僧侶約1,000人、末寺400以上、塔頭49院を数えた。
円覚寺は1282年、時頼の子で執権の北条時宗が、宋から無学祖元を招いて開いた。寺によれば、時宗は国家の鎮護と禅を弘めることを願い、また蒙古襲来で亡くなった人々を、敵味方の区別なく平等に弔うために建立を発願した。
禅は、新しい建築の様式ももたらした。文化庁は、円覚寺の舎利殿(国宝)を、南宋の中央様式に基づく禅宗様の最も純粋な遺構としている。今の舎利殿は、様式から室町前期の建物と推定され、1563年の円覚寺の大火の後にこの地へ移されたものである。
よく知られる「鎌倉五山」は、もう少し後の時代のものである。鎌倉市によれば、五山の制度は官が任命した住持を順に上位の寺へ昇任させる仕組みで、現在の鎌倉五山は室町時代に定められた。
幕府が滅びた後
鎌倉市によれば、幕府は1333年に新田義貞によって滅ぼされた。その後、鎌倉には東国10か国を治める鎌倉府が置かれた。1455年、戦いに敗れた鎌倉府の長・足利成氏が古河へ逃れると、鎌倉は政治の中心地ではなくなった。
寺々もその影響を受けた。建長寺は、1333年に最大の後ろ盾だった北条氏が滅んだことが大きな痛手になったと記す。
円覚寺は室町時代から江戸時代にかけて何度も火災に遭い、衰えた時期もあった。寺によれば、江戸時代後期に大用国師が伽藍を復興し、今日の円覚寺の基礎を築いた。
鎌倉市によれば、江戸時代に入ると社寺は復興し、鎌倉は参拝客が訪れる半農半漁の門前町になった。17世紀後半には徳川光圀が『新編鎌倉志』を編み、史跡めぐりを楽しむ江戸の町人も増えていった。
鎌倉を訪ねる
建長寺と円覚寺は、どちらも北鎌倉の山ノ内にあり、拝観できる。円覚寺はJR横須賀線の北鎌倉駅から歩いて1分ほどである。
2026年時点で、両寺とも一般向けの坐禅会を開いている。拝観時間や拝観料、坐禅会の日程は、それぞれの公式サイトで確かめてほしい。
円覚寺によれば、今日の静かな伽藍は、創建以来の七堂伽藍の形式を伝えている。建長寺は平成に入って、大庫裏・得月楼や僧堂の大徹堂などを再興した。
八幡宮によれば、鶴岡八幡宮では今も9月の例大祭で流鏑馬神事が行われている(2026年時点)。この神事は、頼朝が天下泰平・国家安穏を祈って鎌倉時代に催したのが始まりである。
これらの寺社は、今も信仰の場である。鎌倉市は、五山の寺々は市が管理するものではなく民間の所有地であるとし、訪れる際は近隣の人々の迷惑にならないよう配慮してほしいと呼びかけている。
出典
- 鎌倉の歴史Kamakura City
- 鎌倉五山と禅文化Kamakura City
- 史跡朝夷奈切通Kamakura City Board of Education (Cultural Properties Division)
- 朝夷奈切通(国指定文化財等データベース)Agency for Cultural Affairs
- 和賀江嶋(国指定文化財等データベース)Agency for Cultural Affairs
- 寿福寺境内(国指定文化財等データベース)Agency for Cultural Affairs
- 円覚寺舎利殿(文化遺産オンライン)Agency for Cultural Affairs
- 神奈川県の歴史Kanagawa Prefecture
- 社会(歴史)歴史年表③ ~鎌倉・室町時代~(家庭学習用プリント)Chiba Prefectural Board of Education
- 「鎌倉幕府」はどこに?:1192か1180か、揺れる開幕年(1)Nippon.com (Nippon Communications Foundation)
- 知る(鶴岡八幡宮の由緒・伝統文化)Tsurugaoka Hachimangu
- 建長寺について(建長寺の歴史・建長寺開山大覚禅師・建長寺開基北条時頼公)Kenchoji (Rinzai school, Kenchoji branch head temple)
- 拝観案内・アクセス/坐禅会Kenchoji (Rinzai school, Kenchoji branch head temple)
- 円覚寺についてEngakuji (Rinzai school, Engakuji branch head temple)
- 拝観案内・アクセス/法話会・坐禅会・写経会Engakuji (Rinzai school, Engakuji branch head temple)
