岡山市にある後楽園は、岡山藩の藩主のためにつくられた大名庭園である。岡山藩2代藩主の池田綱政が、家臣の津田永忠に命じて築かせた。
1687年に工事が始まり、1700年に一応の完成をみた。その後も藩主の好みで手が加えられたが、公式サイトによれば、江戸時代の姿を大きく変えることなく今に伝えられている。
岡山県が運営する公式サイトは、後楽園を水戸の偕楽園、金沢の兼六園とともに「日本三名園」の一つとしている。文化庁も、三名園の一つに数えている。国の特別名勝に指定されている。
この記事では、1680年代の庭づくりから、後の藩主たちによる改変、一般への公開、そして20世紀の大きな被害からの復旧までをたどる。
治水がひらいた庭づくり
公式サイトの歴史の説明は、庭づくりを大規模な土木工事と結び付けている。築庭の少し前から、岡山藩は、城下町のすぐ東を流れる旭川と、さらに13キロほど東の吉井川の間に広がる遠浅の海の干拓を進めていた。児島湾の大規模な干拓には、排水と用水を兼ねた大きな放水路である百間川が必要で、1685年から翌年にかけて築堤工事が本格化した。
その結果、城の背後に広がり洪水の被害を受けやすかった大きな河原が、比較的安定して使える土地になった。そこで綱政は干拓工事を一時止め、1687年に後楽園の築庭を命じた。それから約4年間は築庭に力を集め、1692年に干拓が再開された。
公式サイトは、こうしてできた沖新田(1800町歩)を、江戸時代における日本最大の干拓地としている。庭づくりを含む一連の大工事は、岡山藩の重臣、津田永忠が総指揮をとった。こうして、城の背後の通いやすい場所に、藩主が安らぐ場がつくられた。
少しずつ整えられた庭
後楽園によれば、池田家文庫に残る絵図からは、今の景色に直接つながる一つの計画があったのではなく、使いながら工夫を重ね、少しずつ庭の範囲と景色が整えられていった様子がうかがえる。最初は約1万7千坪の土地に、藩主が滞在する建物と、その南の庭、東に広がる田畑があるだけの簡単な庭だった。
1689年に岡山へ帰った綱政は、すぐにこの庭を訪れた。翌年の春、参勤交代で江戸へ向かう際には、津田永忠に北へ約5200坪の土地を加えるよう命じている。
1691年、綱政は庭を見て大いに喜び、津田に褒美を与え、家臣800人余りを招いて祝いの餅を配った。この年を一応の完成とみる意見もある。
その後も土地は付け足され、1700年に約860坪が加わって庭の外形が整った。この範囲は、いま名勝に指定されている区域の外形とほぼ同じで、この年を一応の完成とする考え方もある。1707年には能舞台が完成し、綱政の望んだ庭の役割がそろったのはこの時だとする見方もある。
綱政の時代の庭を描いた「御茶屋御絵図」が今も伝わっている。改修した部分に紙を貼り重ねた跡があり、後楽園は、綱政が庭で過ごしながら好みに合わせて手を入れていった様子がうかがえるとしている。
当時の庭は、今とは姿が違った。庭の4分の3ほどは田畑で、土地は平らで、中央の築山もまだなかった。
藩主の居間である延養亭などの座敷から眺めることを主とした庭で、東の田園と、園外の操山を借景にしていた。絵図の書上によれば、園内には1200本近い桜があったようだ。
後の藩主たちによる改変
綱政の子の継政は、庭の中央に高さ約6メートルの築山、唯心山を築いた。そのふもとに水路を巡らせ、ひょうたん池を掘らせ、能舞台の周りの建物も大きく改築した。これにより庭に高みができ、歩いて巡っても楽しい庭になった。
継政の孫の治政は倹約のため、1771年に田畑の耕作をやめさせ、田畑を芝生に変えた。これにより、灌漑用の水路は芝生の間をゆったりと流れる「曲水」となった。東側の大半はまもなく田畑に戻り、今の「井田」はその名残である。
今の後楽園は、広い芝生や池、築山、茶室が園路や水路で結ばれ、歩きながら移り変わる景色を楽しめる回遊式庭園である。全長約640メートルの曲水が園内を巡り、池や滝となって水の景色をつくっている。
領民とともに楽しむ庭
池田家文庫に残る江戸時代の管理記録からは、後楽園が藩主の日常生活の場の一つだったことが分かる。公式サイトの説明は、飾り物ではなく生きた空間として使われていたとしている。
庭は藩主だけのものでもなかった。江戸時代には、許しがあれば領民も入ることができた。能を好んだ綱政は、自ら舞う姿を見せることもあった。
継政以後の藩主たちは、参勤交代で岡山を留守にする間、日を決めて庭を見せている。江戸時代後期に稲荷の信仰が盛んになると、藩主が岡山にいる時の初午の祭礼に領民を招き、3万から6万人が参拝した年もあった。
家臣たちは、馬場や弓場で日ごろの武芸の腕前を披露し、藩主はそれを観覧した。披露が終わると、庭を見物して帰ることが褒美として許された。
1871年、池田家は「御後園」を「後楽園」と改め、日を決めて見物を許した。1884年には、名園を保存するため岡山県に譲った。当初は公園ではなく県庁の付属地として公開されたため、日没に門を閉めるなどの決まりが設けられた。
1922年に名勝に、1952年には文化財保護法による特別名勝に指定された。
被害と復旧
20世紀に入り、後楽園は二度大きな被害を受けた。1934年の室戸台風で大きな被害を受け、その水害の後、後楽園の東に旭川の支流が通され、後楽園は川の中の完全な中州となった。
1945年には、戦争で再び被害を受けた。1945年6月29日、アメリカ軍の爆撃機B-29が岡山を空襲した。
岡山市によれば、当時の市街地の63%が焼け、少なくとも1,737人が亡くなった(2,000人を超えるという説もある)。この空襲で、園内の建物の大半が焼失した。
どちらの被害の後も、江戸時代の絵図に基づいて復旧が進められた。園路が単純になるなど、変わった部分もあり、今の地割りはこの時の改修を直接引き継いでいる。
建物は順に復元され、1952年に茂松庵、1958年に能舞台と観射亭、1960年に延養亭、1967年に栄唱の間が復元された。延養亭は、綱政の時代の「御茶屋御絵図」をもとに復元された。
訪れられる場所
後楽園は岡山市北区にあり、一般に公開されている。延養亭や能舞台などの歴史的な建物は通常は非公開だが、公式サイトによれば、年2回の延養亭の特別公開や能舞台での公演などの機会に公開される。開園時間や催しは公式サイトで確かめてほしい。
園内では、綱政が最も好んだといわれる廉池軒、建物の中に水路を通した流店、井田、180メートルの馬場に面した観騎亭、園内最大の池である沢の池の中島に建つ島茶屋などを見ることができる。
出典
- 歴史・概要(後楽園)Okayama Korakuen (official site, Okayama Prefecture)
- 1.築庭の過程と一応の完成(後楽園)Okayama Korakuen (official site)
- 2.築庭当時の風景(岡山後楽園「後楽園の歴史あれこれ」)Okayama Prefecture (Okayama Korakuen Office, official site)
- 3.ともに楽しむ庭(岡山後楽園「後楽園の歴史あれこれ」)Okayama Prefecture (Okayama Korakuen Office, official site)
- 4.後楽園の変化(岡山後楽園「後楽園の歴史あれこれ」)Okayama Prefecture (Okayama Korakuen Office, official site)
- 5.岡山県に譲渡(岡山後楽園「後楽園の歴史あれこれ」)Okayama Prefecture (Okayama Korakuen Office, official site)
- 6.災害と復旧(岡山後楽園「後楽園の歴史あれこれ」)Okayama Prefecture (Okayama Korakuen Office, official site)
- 後楽園内にある建造物のご紹介(岡山後楽園「建物探訪」)Okayama Prefecture (Okayama Korakuen Office, official site)
- 企画展「第47回岡山戦災の記録と写真展 戦時下の学校と子どもたち」Okayama City (Okayama City Museum, Okayama Air Raid Exhibition Room)
- 常磐公園(偕楽園)(日本遺産ポータルサイト 構成文化財)Agency for Cultural Affairs (Japan Heritage portal)
