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茨城県 · 近世

Mito and the Kōdōkan: A Domain School and Late Edo Thought

水戸と弘道館―藩校と幕末の思想

1841年、徳川斉昭が水戸城内に創設した弘道館は、水戸市によれば藩校として日本最大の規模で、儒学や武芸から西洋医学までを教えた学校だった。

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晴れた青空の下の水戸・弘道館の正庁。白壁と灰色の瓦屋根の横に長い平屋の木造建築で、手前の低い木の柵の中に大きく手入れされた松があり、砂利敷きの前庭を数人の見学者が後ろ姿で歩いている
弘道館の正庁(2020年2月撮影)。Miyuki Meinaka, 2020-02-23 · Wikimedia Commons · Creative Commons Attribution-ShareAlike 4.0 International · 出典 · 縮小して掲載

茨城県水戸市の旧城下町に、水戸藩の藩校だった弘道館がある。水戸藩第9代藩主の徳川斉昭が、1841年に水戸城内に創設した学校である。

弘道館事務所と水戸市によれば、敷地は約10.5haに及び、藩校としては日本最大の規模だった。この記事では、水戸が学問の中心地となった経緯、弘道館で何が教えられたのか、そして今そこで何を見られるのかをたどる。

徳川の藩と歴史書の編さん

17世紀の初め、水戸は徳川家康の子たちが治める地となった。慶長14年(1609)、家康は、それまで下妻10万石の領主だった十一男の頼房を水戸城主に据えた。

水戸藩はのちに35万石に加増され、徳川御三家の一つに列せられた。水戸市によれば、これ以降、水戸の城下は関東では江戸に次ぐ城下町として拡大・整備された。

2代藩主の徳川光圀は、中国の史書を手本とした歴史書『大日本史』の編さんに着手した。その編さん所として江戸の水戸藩邸に彰考館を設け、元禄11年(1698)には水戸城二の丸の一画に移した。

編さんでは史料を可能な限り探し求め、関連する書物の編さんや古典の研究も行われた。水戸市によれば、内容は膨大となり、事業は江戸時代を通じて続き、完成したのは明治になってからだった。

文化庁は、水戸藩には『大日本史』を編集した彰考館があり、昔から学問・教育が盛んだったと紹介している。

斉昭の藩政改革

徳川斉昭(1800〜1860)は、文政12年(1829)に水戸藩主となった。茨城県によれば、斉昭は藤田東湖や会沢正志斎ら改革派の支持を背景に、質素倹約・社寺改革・財政再建などの藩政改革を強力に進めた。

水戸市は、この改革を、幕末の度重なる経済的・政治的危機を乗り切るためのものと説明している。会沢や藤田は儒教思想をもとにしつつ独自の世界観をもち、その著作や教えは幕末の思想界に大きな影響を与えたという。

藤田東湖(1806〜1855)は、弘道館の建学精神を記した「弘道館記」の下書きを書き、その解説書『弘道館記述義』も著した。茨城県は、東湖の思想が幕末の志士たちに大きな影響を与えたとしている。

改革は摩擦も生んだ。県によれば、藩内で改革派と門閥派の対立が表面化し、弘化元年(1844)、斉昭は幕府の命により藩主を辞任し、謹慎を命じられた。

嘉永6年(1853)のペリー来航後、斉昭は幕府の海防参与に就いた。のちに日米修好通商条約の調印をめぐって大老井伊直弼と対立し、水戸での永蟄居を命じられたまま亡くなった。

「総合大学」のような藩校

水戸市によれば、斉昭は天保12年(1841)、藩政改革の一環として人材の養成を掲げ、藩士とその子弟の教育の場として弘道館を創設した。文化庁は、斉昭が教育によって人心を安定させ、国を興すために設立したと説明している。

建学の精神は、斉昭の名で「弘道館記」として公表された。そこには「文武一致」「神儒一致」「学問事業一致」が掲げられ、現実の政治や社会に役立つ学問と武芸を身につけることが目標とされた。

儒学や武道だけでなく、西洋医学・薬学・天文学なども学ぶことができた。水戸市は、弘道館が今日の総合大学のような役割を担ったとしている。

医学館では種痘が行われた。斉昭は自分の子ども2人に種痘を受けさせるなどして、領内への普及を図った。

敷地には、正庁・至善堂・文館・武館・医学館・鹿島神社・孔子廟・八卦堂・馬場・調練場などがあった。弘道館事務所によれば、その配置には建学の精神に沿った工夫がこらされていた。

文化庁は、弘道館の教育方針や施設、運営方法などが、松代藩の文武学校や庄内藩の致道館といった他藩の藩校にも大きな影響を与えたとしている。

休息のための庭園

弘道館創設の翌年、天保13年(1842)、斉昭は弘道館と対になる施設として、千波湖のほとりに偕楽園を開いた。斉昭自らが設計し、敷地は約18haに及んだ。

開園前の天保10年(1839)に建てられた「偕楽園記碑」には「一張一弛」と記され、弘道館は修学(一張)の場、偕楽園は休養(一弛)の場と位置づけられた。名前は「民と偕に楽しむ」に由来し、日を決めて領民にも開放された。

斉昭は、弘道館と偕楽園に多くの梅を植えさせた。文化庁によれば、梅の実は非常食になり、梅には学問を好む「好文」という異名があったためである。

動乱の時代

斉昭の七男・慶喜は、一橋家へ養子に出る前に弘道館で教育を受けた。水戸市によれば、水戸藩の学問・教育は慶喜の政治姿勢の根幹となった。

慶喜は15代将軍となり、慶応3年(1867)に大政奉還を行った。弘道館事務所によれば、その後、慶喜は弘道館の至善堂の一室で謹慎した。

水戸では、斉昭の死後に藩内が分裂し、派閥の間で激しい抗争が繰り返されて藩は弱体化したと、水戸市は記している。弘道館事務所によれば、文館・武館・医学館は、明治元年(1868)の弘道館での戦いで焼失した。

弘道館を訪ねる

現在、藩校時代の敷地のうち約3.4haが特別史跡「旧弘道館」に指定されている。正門・正庁・至善堂は重要文化財である。

弘道館事務所は、「学校御殿」とも呼ばれた正庁を弘道館の中心的な建物とし、藩主の臨席のもとで試験や諸儀式が行われたと説明している。正門は、藩主の来館や正式な行事の際にだけ開かれた。

敷地には、鹿島神宮から分祀した神を祀る鹿島神社や、復元された孔子廟、「弘道館記」の碑を納めた八卦堂(復元)などもある。日本遺産ポータルサイトの旧弘道館の解説(水戸市執筆)によれば、館内では今も論語教室が開かれている。

弘道館は、足利・備前・日田の文化財とともに、日本遺産「近世日本の教育遺産群」を構成している。偕楽園は、兼六園・岡山後楽園とともに「三名園」の一つに数えられている。

弘道館事務所の散策ルートは、復元された大手門や二の丸角櫓など、水戸城跡とも結んでいる。開館時間や入館料は、訪れる前に公式サイトで確かめてほしい。

出典

  1. 水戸市歴史的風致維持向上計画(第1期) 第1章 歴史的風致形成の背景Mito City
  2. 近世日本の教育遺産群 ─学ぶ心・礼節の本源─(日本遺産ストーリー)Agency for Cultural Affairs (Japan Heritage portal)
  3. 旧弘道館(日本遺産ポータルサイト 構成文化財)Agency for Cultural Affairs (Japan Heritage portal); text by Mito City Historical and Cultural Properties Division
  4. 常磐公園(偕楽園)(日本遺産ポータルサイト 構成文化財)Agency for Cultural Affairs (Japan Heritage portal)
  5. 弘道館(散策ルート・施設案内リーフレット)Kodokan Office, Ibaraki Prefecture (hosted by the Ibaraki Prefectural Tourism and Local Products Association)
  6. 茨城の先人たち 徳川斉昭Ibaraki Prefecture (Culture Division, Ibaraki Bunka Joho Net)
  7. 茨城の先人たち 藤田東湖Ibaraki Prefecture (Culture Division, Ibaraki Bunka Joho Net)