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静岡県 · 近世

Sunpu and Tokugawa Ieyasu: The Town of a Retired Shogun

駿府と徳川家康―隠居の町

将軍の職を子に譲った徳川家康は、今の静岡市にあたる駿府に隠居して城と町を築き直し、静岡市によれば駿府を政治・経済・文化の中心にした。

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曇り空の下、緑色の堀から立ち上がる高く黒っぽい石垣の上に建つ、灰色の瓦屋根が2段に重なる白い隅櫓。右手には、低い石垣の上に瓦屋根の白い門の建物が続いている
復元された駿府城の巽櫓(左)と東御門(2015年9月撮影)。そらみみ (Soramimi), 2015-09-17 · Wikimedia Commons · Creative Commons Attribution-ShareAlike 4.0 International · 出典 · 縮小して掲載

駿府は、今の静岡市の昔の呼び名である。江戸時代のはじめ、徳川家康は将軍の職を子に譲ったのち、この駿府に隠居した。

静岡県によれば、家康には主な家臣や学者、大商人などもついて来たため、この地域の文化に大きな影響を与えた。この記事では、家康と駿府の結び付き、家康が築き直した城と町、そして今そこで見られるものをたどる。

幼いころから知る町

静岡市によれば、室町時代に今川範国が駿河国の守護に任じられ、そのころから、のちの駿府城の周辺に今川氏の館があったと考えられている。

家康(幼名は松平竹千代)は、少年のころ駿府にやって来た。天文18年(1549)から19歳までの12年間、今川氏の人質として駿府で暮らしたのである。

その間、家康は臨済寺の住職・太原雪斎などから様々な教えを受けた。静岡市は、この時期を家康の人間形成の上で非常に重要な時期だったとし、家康が若いころ・壮年期・晩年を駿府で過ごしたと紹介している。

最初の駿府城

駿河国を領国の一つとした家康は、天正13年(1585)から居城として駿府城の築城を始めた。久能山東照宮の年譜には、天正14年(1586)12月に浜松から駿府へ移ったとある。

城は天正17年(1589)に完成した。今の二ノ丸より内側の部分である。しかし翌年、家康は豊臣秀吉の命令で関東へ移され、豊臣方の家臣・中村一氏が城主となった。

慶長8年(1603)、家康は征夷大将軍に任じられ、江戸幕府を開いた。

大御所として駿府へ

慶長10年(1605)、家康は将軍職を子の秀忠に譲った。静岡市によれば、その翌年、家康は駿府を「大御所政治」の拠点と定め、再び駿府に戻ってきた。

市の年表では、家康が駿府城に移り住んだのは慶長12年(1607)7月である。家康は以前の城を広げて三ノ丸を加え、町割りを行い、安倍川の治水工事にも取り組んだ。静岡市は、これによって今の静岡市の市街地の原型が造られたとしている。

静岡市の説明では、慶長12年(1607)、家康は全国の大名に命じて城を築かせた(天下普請)。石垣を巡らせた3重の堀を持ち、本丸の北西には5重(または6重)7階といわれる天守が置かれた。

本丸は慶長12年(1607)に完成したが、同じ年の12月に火事で焼けてしまった。ただちに再建が始まり、慶長13年(1608)に本丸御殿が、慶長15年(1610)に天守が完成した。

観光庁の解説文によれば、多くの大名が堀を掘り石垣を築くための人々を送った。石の一部には各藩の紋などが刻まれ、その多くは今も見ることができるという。

駿府からの政治

大御所となった家康は、晩年も天下の実権を握っていた。静岡市によれば、駿府は江戸をしのぐ政治・経済・文化の中心となり、黄金時代を迎えた。

静岡市は別のページでも、この時代は江戸とともにいわば二元政治が行われ、駿府は政治・経済の中心地として大いに栄えたと説明している。

家康は江戸幕府を盤石にするため、「武家諸法度」「禁中並公家諸法度」などを定めた。静岡市によれば、駿府城ではアジアの国々をはじめ、オランダ・スペイン・イギリスとも交易を行うなど、外交も行っていた。

久能山東照宮の年譜には、その例が載っている。慶長14年(1609)、家康は駿府城でオランダ国王の使節に会って通商を許し、慶長18年(1613)にはイギリス国王の使節にも同じく通商を許した。

慶長16年(1611)7月には、スペイン国王フェリペ3世からの答礼使に駿府城で会い、「洋時計」などを贈られた。東照宮によれば、この時計は今、家康に関係する資料の一つとして重要文化財に指定されている。

家康の死と久能山

久能山東照宮によれば、家康は元和2年(1616)正月21日に田中で病に倒れ、駿府城に戻って治療を受けた。そして4月17日、75歳で駿府城で亡くなった。

東照宮は『本光国師日記』を引いて、家康が死後のことを言い残していたと伝えている。遺体は駿河国の久能山に葬り、葬儀は江戸の増上寺で行い、位牌は三河国の大樹寺に納め、一周忌を過ぎたら下野の日光山に小さなお堂を建ててまつるように、という内容である。

この遺言に従って遺体は久能山に葬られ、2代将軍秀忠の命令で、その地に神社が創建された。久能山東照宮は、自らを全国の東照宮の始まりとしている。

東照宮の年表によれば、社殿は元和3年(1617)12月に完成した。権現造で、全体に漆を塗り、鮮やかに彩色された社殿は、日光東照宮より19年前に造られたもので、国宝に指定されている。

家康の死後、寛永元年(1624)に秀忠の子・忠長が駿府城の城主となったが、寛永8年(1631)に蟄居を命じられた。それ以後、江戸時代の終わりまで、城は城代が預かることになった。

寛永12年(1635)の火事で、天守をはじめ城の建物の大半が焼けた。寛永15年(1638)までに御殿・櫓・門などは再建されたが、天守が再び建てられることはなかった。

明治2年(1869)、「駿河府中」は「静岡」と改められた。明治29年(1896)には城跡が陸軍に引き渡され、残っていた天守台の上部は取り壊されて、その土砂で本丸の堀が埋め立てられた。

駿府城跡を訪ねる

昭和24年(1949)に静岡市が城跡を取得し、本丸と二ノ丸は公園になった。昭和26年(1951)に「駿府公園」と名付けられ、平成24年(2012)に「駿府城公園」と改称された。

城の建物もいくつか復元されている。平成元年(1989)に巽櫓、平成8年(1996)に東御門、平成26年(2014)に坤櫓が復元された。静岡市によれば、巽櫓は全国の城の櫓でもほかに例の少ないL字型の平面を持つ。

東御門と巽櫓の中では、公園内から出土した資料や、幼い家康が太原雪斎から教えを受けたとされる臨済寺の部屋を復元した「竹千代手習いの間」が見られる。公園には大御所時代の家康の銅像もあり、本丸の堀の一部は発掘されて再現されている。

静岡市は2016年から2020年にかけて天守台を発掘し、以前の天守と家康の大きな天守、両方の土台が見つかった。観光庁の解説文は、この天守台を日本で最も大きなものとしている。なお、発掘現場の見学ゾーンと「発掘情報館きゃっしる」は、新しい施設の工事のため2025年12月26日に閉館した。

久能山東照宮は、東照宮によれば高さ216mの久能山にあり、駿河湾を見下ろす。博物館には、家康をはじめ歴代将軍に関係する文化財が2,000点以上収められている。参拝には、日本平ロープウェイを使う方法と、久能山のふもとから歩いて登る方法がある。

開園・開館時間や料金は、訪れる前に駿府城公園と久能山東照宮の公式サイトで確かめてほしい。

出典

  1. 県の歴史と昔話Shizuoka Prefecture
  2. 徳川家康と駿府(駿府城公園公式サイト)Shizuoka City (Sunpu Castle Park official website)
  3. 駿府城公園の歴史(駿府城公園公式サイト)Shizuoka City (Sunpu Castle Park official website)
  4. Sumpu Castle Park (English page)Shizuoka City (Sunpu Castle Park official website)
  5. 東御門・巽櫓(駿府城公園公式サイト)Shizuoka City (Sunpu Castle Park official website)
  6. 駿府城跡・駿府城跡天守台発掘調査Shizuoka City
  7. Foundation of Sumpu Castle's Main Tower(駿府城天守台跡の石垣)Japan Tourism Agency (multilingual commentary, published on the Shizuoka City website)
  8. 久能山東照宮(公式サイト トップページ)Kunozan Toshogu
  9. 久能山の歴史(久能山東照宮)Kunozan Toshogu
  10. 徳川家康公について(久能山東照宮)Kunozan Toshogu