富山平野の向こうにそびえる立山は、古くから信仰の対象となってきた。最高地点は標高3,015mである。じつは「立山」という一つの峰はなく、今では雄山(おやま)・大汝山(おおなんじやま)・富士ノ折立(ふじのおりたて)の三つの山を指すのが一般的である。
富山県教育委員会によれば、富士山・白山の信仰と並ぶ立山信仰は、中世の末ごろから盛んになり、全国から参詣者を集めた。この記事では、参詣者を支えた信仰用具や絵、ふもとの村をとおして、その歩みをたどる。
死者の山、地獄の山
立山博物館を中心とする富山県の計画によると、立山は古くから死者の魂が行くところと考えられ、遅くとも平安時代には修験者の霊場であったとされる。平安時代には立山に「地獄」があると信じられ、『今昔物語集』にも地獄の山として登場する。
同じ計画は、その背景に特異で荒涼とした山の景観があったとする。立山には「地獄谷」や、弥陀ヶ原に点在する池を呼んだ「餓鬼の田圃(がきのたんぼ)」といった名が付けられた。
計画は、立山信仰を、自然崇拝・神道・仏教などが結びついて成り立った山岳信仰と説明する。立山開山、擬死再生、景観と結びついた地獄思想などがその主な要素である。立山は「地獄と浄土が隣り合わせで共存する山」とされた。
山に登ることで死と再生を経験するとされたのが「禅定登拝(ぜんじょうとはい)」である。計画は、これを地獄に堕ちることから救われるという、立山信仰の中心的な儀礼だったとしている。
開山の伝説
立山が「開かれた」いきさつは、伝説として語られている。観光庁のデータベースに載る立山町の解説文によれば、国司の息子・佐伯有頼(さえきのありより)は白い鷹に導かれて山に入った。
途中で黒い熊に矢を射かけ、のちに山頂近くの洞窟でその熊を見つけると、熊は阿弥陀如来の姿となって修行を勧めたという。伝承では、これは701年の出来事とされる。
これは信仰の伝承であり、ほかの証拠で年代を確かめられる出来事ではない。一方で、山の上からは古い時代の活動をうかがわせる品が見つかっている。
1907年(明治40年)、陸軍の陸地測量部の測量手・柴崎芳太郎の一行が、人が登ったことがないと信じられていた剱岳の頂上に立ち、銅の錫杖頭(しゃくじょうとう)と鉄剣を見つけた。どちらも平安時代の作と推定されるが、鉄剣にはわからない点も多い。
県の計画は、この錫杖頭を、古代からすでに修行者が剱岳に登っていた跡を示すものと考えている。立山町の解説文も、山頂付近で見つかった銅製品から、立山は8世紀には修験の場だった可能性があるとしている。
宿坊の村と立山曼荼羅
立山町の解説文によれば、1600年代に入ると立山への巡礼はより広く人々を引きつけるようになった。ふもとの芦峅寺(あしくらじ)と岩峅寺(いわくらじ)には、数十軒の宿坊が建てられた。1800年代には、1シーズンに6,000人もの巡礼者が立山に登ったと考えられている。
芦峅寺は、標高約400mの川沿いの段丘の上にある。県の計画によれば、かつては多くの堂社が建ち並び、33の宿坊をもつ村であった。33の宿坊家と5軒の社人の家は「一山(いっさん)」という自治の組織をつくっていた。
芦峅寺の宿坊の主人たち(衆徒)は、立山信仰の世界を細かく描いた「立山曼荼羅」を使って信仰を広めた。宿坊はそれぞれ遠くの地方に「檀那場(だんなば)」と呼ばれる得意先をもち、主人がそこを回った。曼荼羅を見せながら絵解きをし、立山への登拝や、芦峅寺で行われる女性のための儀式への参加を勧めたのである。
現存する曼荼羅の大半には、開山の縁起、地獄、浄土、登拝道とさまざまな伝説、そしてその女性の儀式という五つのテーマが描かれている。計画によれば、確認されている曼荼羅は53点で、立山博物館が13点を所蔵し、15点を受託・借用している。立山町の解説文は、江戸時代の曼荼羅が全国各地で見つかっていることにも触れている。
女性と布橋灌頂会
立山は女人禁制であった。立山博物館の2026年のチラシによれば、江戸時代、女性は「五障三従(ごしょうさんじゅう)」の身などといわれて、地獄に堕ちることは避けられず極楽往生もかないがたいと説かれ、立山に入ることも許されなかった。
富山県教育委員会によれば、この女人禁制のもとで、女性の講(女人講)は芦峅寺の堂までの参詣を許されていた。その衣装は、今に残る信仰用具の中にも含まれている。
山に登る代わりに、芦峅寺では女性を救うための儀式「布橋灌頂会(ぬのばしかんじょうえ)」が行われた。県の計画によれば、この儀式は江戸時代後期に芦峅寺で確立した。白装束に身を包み目隠しをした女性たちは、まず閻魔堂で懺悔し、加賀藩や信者から寄進された白い布が三列に敷かれた布橋を渡った。
橋の向こうのうば堂で「血脈(けちみゃく)」を授かると、来世の浄土が約束されるとされた。布橋は、あの世とこの世をつなぐ橋と考えられていた。博物館のチラシは、この儀式が毎年、秋の彼岸の中日に行われていたと伝えられているとしている。
うば堂にまつられていた「うば尊」は、計画によれば地母神であり、女性を救う神でもある。うば尊への信仰は、女性が地獄に堕ちることから救われることを中心にしていた。
変化と再現
立山町の解説文によれば、1868年の明治維新のあと、立山の女人禁制は廃止された。神と仏を一体とする信仰の多くは姿を消し、山の上の信仰の場は神社に改められた。
県の計画によれば、布橋灌頂会は明治初期の廃仏毀釈の影響で行われなくなった。うば堂も、廃仏毀釈のさなかに取り壊された。
1996年(平成8年)、国民文化祭をきっかけに、博物館は地元の芦峅寺や立山町と協力して、この儀式を約130年ぶりに再現した。2011年からは3年ごとに全国から参加者を募って開かれている。2020年は新型コロナウイルスの影響で見送られ、2022年9月に観客を入れずに開かれた。
ほかにも続いている行事がある。毎年3月13日には、うば尊像の衣を縫って着せ替える行事が行われる。
江戸時代から今日まで続くもので、「芦峅寺のおんば様のお召し替え」として富山県の無形民俗文化財に指定されている。計画によれば、今は芦峅寺の女性の会の役員が中心となって行っている。
信仰の用具も守られてきた。1970年(昭和45年)、参詣者や山伏の装束、もてなしの道具、女人講の衣装などを含む芦峅寺の資料1,083点が、国の重要民俗資料(現在の重要有形民俗文化財)に指定された。2020年(令和2年)には160点が追加指定され、合わせて1,243点となった。
芦峅寺を訪ねる
富山県[立山博物館]は、計画がかつて立山信仰の拠点集落の一つだったとする芦峅寺にある。1991年(平成3年)11月に開館し、立山における人と自然のかかわりを調べ、紹介している。約13ヘクタールの敷地には、展示館、野外施設の「まんだら遊苑」、江戸時代後期の宿坊建築である「教算坊」などがある。
計画によれば、博物館の周りの芦峅寺には今も、雄山神社芦峅中宮祈願殿、閻魔堂、再現された布橋とうば堂基壇、数多くの石仏、二つの旧宿坊の建物が残っている。
博物館のチラシによれば、2026年は9月に予定された布橋灌頂会にあわせ、6月30日から9月27日まで記念展が予定されていた。展示や開館日、儀式の日程は変わることがあるため、出かける前に博物館の公式情報で確かめてほしい。
出典
- 立山博物館を中核とした文化観光拠点計画 ~昨日と違うわたしに出会う、霊山立山 "こころ"の旅~Toyama Prefecture (plan published by the Agency for Cultural Affairs)
- 立山信仰用具富山県教育委員会・とやま学遊ネット
- 令和8年度 布橋灌頂会開催記念展(チラシ)富山県[立山博物館](Tateyama Museum of Toyama, Toyama Prefecture)
- The Tateyama Faith (Japan Tourism Agency multilingual commentary database)立山町多言語解説協議会 (tateyamamachi tagengo kaisetsu kyogikai), published in the Japan Tourism Agency multilingual commentary database
- Tateyama Mandalas (Japan Tourism Agency multilingual commentary database)立山町多言語解説協議会 (tateyamamachi tagengo kaisetsu kyogikai), published in the Japan Tourism Agency multilingual commentary database
