青森市の丘陵の先端で、1992年に始まった発掘調査により、大規模な縄文集落の跡が見つかった。人びとが暮らしたのは縄文時代前期から中期、紀元前約3,900〜2,200年、今から約5,900〜4,200年前のことである。
発掘では、たくさんの建物の跡や盛土、大人と子どもの墓が見つかり、大量の土器や石器、貴重な木製品なども出土した。
三内丸山遺跡センターによれば、遺跡の広さは全体で約42ヘクタールある。世界遺産の公式サイトは、大規模な拠点集落と位置づけている。土地は用途ごとに使い分けられていた。
森と内湾のあいだの集落
集落は、八甲田山系から続くなだらかな丘陵の先端、沖館川に沿った標高約20メートルの海岸段丘の上にあった。近くの陸奥湾はおだやかな内湾で、センターは魚が豊富だったと説明している。背後には落葉広葉樹の森が広がり、クリやクルミ、山菜に恵まれていた。
当時は今より少し暖かく、年平均気温が2〜3度ほど高かったと考えられている。海は今より内陸まで入り込み、海岸線は標高5メートル前後にあったとみられる。
センターによれば、集落ができる前、このあたりはブナやドングリの木などが茂る豊かな森だった。人びとは村をつくるとき、クリとクルミを残してほかの木を切り、周りの大部分は人が管理するクリ林になった。
食べものの跡からは、そうした暮らしの中身が見えてくる。食料の大部分は植物性のもので、なかでもクリが特に重要だったらしい。マメ類やヒョウタンも栽培されていた。
動物の骨は、多くの縄文遺跡で目立つシカやイノシシではなく、ムササビやノウサギなどの小動物が多い。魚はマダイ、ブリ、サバ、ヒラメ、ニシン、サメ類などが多い。
計画された村
世界遺産の公式サイトは、この集落について、竪穴建物、掘立柱建物、列に並んだ墓、埋設土器、盛土、貯蔵穴、道路、大型の建物などが計画的に配置されていると説明している。墓と、ふだん暮らす住まいとは、厳密に分けられていた。
なかにはとても大きな建物もあった。ここで見つかった最大の竪穴建物は、長さ約32メートル、幅約10メートルある。こうした建物は集落の中央付近から見つかることが多く、集会所、共同作業所、共同住宅などの説がある。
大型の掘立柱建物の跡もある。6本の柱で建てられていた。柱穴は直径約2メートル、深さ約2メートルで、4.2メートルの間隔で並び、直径約1メートルのクリの柱が残っていた。
地下水が豊富だったことと、柱の周りと底が焦がされていたことで、腐らずに残った。長方形の大型高床建物だったと考えられている。
食料は蓄えられてもいた。貯蔵穴は集落の外側、台地の縁の近くにまとめて掘られていた。
入り口がせまく底が広いフラスコのような断面のものが多く、クリなどの木の実を蓄えたと考えられている。なかには深さ2メートル近いものもある。
道と墓
集落の中心からは、幅約12メートルの道路が、海に向かって約420メートル延びていた。地面を少し掘り下げて浅い溝のようにしたもので、さらに土を貼って「舗装」した部分もある。最近の調査では、南北に延びる道路も見つかっている。
大人は、集落の東側の道路沿いに葬られた。長さ1〜2.5メートルほどの円形や楕円形の墓穴が、道路をはさんで2列に、向かい合うように並んでいた。ヒスイのペンダントや、まとまった数の矢じりが出てきた墓もある。
集落の西側には、周りを石で囲んだ直径約4メートルほどの墓が、斜面の道路に沿って並んでいる。センターは、集落の有力者の墓と考えている。
子どもの葬り方は違っていた。子どもが亡くなると、丸い穴を開けたり、口や底を打ち欠いたりした土器に入れて、住まいの近くに埋葬した。
土器の大きさから、1歳前後の子どもと考えられている。こうした子どもの墓はこれまでに800基以上見つかっており、土器の中から握りこぶしほどの丸い石が出てくることが多い。
まつり、ものづくり、遠くから来た品
人びとは長い年月にわたって、土や灰、壊れた土器や石器を同じ場所に捨て続け、そこはやがて小山のようになった。土が水平に積もっていることから、盛土は平らにならされていたと考えられている。
盛土から出てくるのは、ふだんのごみだけではない。遺跡からは2,000点を超える土偶が出土しており、世界遺産の公式サイトはこれを日本最多としている。
そのほとんどは板のように平たい十字形である。同サイトによれば、盛土から大量に出たまつりの道具は、ここで長いあいだまつりが続けられていたことを示している。センターは、盛土からヒスイや小型の土器も出土したとしている。
解釈が分かれる
そのまつりが何を意味していたのかは、はっきりしない。センターは、当時の人がごみを単なる不要物とは見ていなかったようで、物を捨てることに、それが再び帰ってきて豊かさをもたらすよう祈る気持ちが込められていたともいわれる、と紹介している。これは解釈であり、出土品から直接証明されたことではない。
ごみ捨て場として使われた水分の多い谷には、木製品や漆器、植物の種、寄生虫の卵まで、ふつうは残らないものが良い状態で残っていた。低地からは約5,500年前の赤漆塗りの木の皿や赤い顔料が見つかっており、センターは、高い技術がいる漆製品がここで作られていたと考えている。
ヒノキ科の針葉樹の樹皮で編んだ小さな袋「縄文ポシェット」も出土した。センターによれば、完全な形のものは日本でこれだけである。
遠くの土地から、舟で運ばれてきた品もある。ヒスイは約600キロメートル離れた新潟県糸魚川周辺のもので、原石、加工途中のもの、完成した玉が見つかっている。黒曜石は、北海道の十勝や白滝、秋田県男鹿、山形県月山、新潟県佐渡、長野県霧ケ峰など、日本海を中心とする各地から運ばれた。
琥珀は岩手県北部の久慈周辺から原石のまま運ばれ、ここで加工されて別の集落へ運ばれたと考えられている。アスファルトも遠くから運ばれた。センターによれば、集落が大きくなる約5,000年前から、ほかの地域との交流・交易がいっそう盛んになった。
その後の青森の縄文と世界遺産
青森の縄文は、三内丸山で終わったわけではない。津軽半島のつがる市にある亀ヶ岡石器時代遺跡は、紀元前約1,000〜400年の遺跡である。岩木川沿いの標高7〜18メートルの丘の上にあり、古十三湖とよばれる昔の内湾に面していた。
台地の上には墓が数多く集まる墓域があり、供え物や玉類が見つかっている。周りの低湿地にはまつりの場としての捨て場がつくられ、漆塗りの精巧な土器や漆器、土偶、植物でできた品、ヒスイの玉などが出土した。
1887年に出土した、左脚が欠けた大型の土偶(国の重要文化財)は、目の表現から「遮光器土偶」という名前のもとになった。つがる市によれば、亀ヶ岡遺跡は、北日本を中心とする縄文時代晩期の「亀ヶ岡文化」の名前の由来になった遺跡である。
二つの遺跡は今、2021年7月27日に世界遺産に登録された「北海道・北東北の縄文遺跡群」の一部である。北海道、青森、岩手、秋田の17の構成資産のうち、8つが青森県にある。
遺跡群では、各遺跡を定住の段階ごとに位置づけている。三内丸山遺跡は主に「定住発展期」後半の大規模な拠点集落、亀ヶ岡石器時代遺跡は「定住成熟期」後半の大規模な共同墓地とされる。
保護の取り組みは、それよりずっと前から始まっていた。青森県は1994年に遺跡の保存を決め、遺跡は2000年11月に特別史跡となった。2003年5月には出土品1,958点が重要文化財に指定された。
三内丸山遺跡を訪ねる
三内丸山遺跡は、三内丸山遺跡センターとあわせて見学できる。センターでは、大型の板状土偶や縄文ポシェットなど、約1,700点の出土品を展示している。遺跡を見学できるのはセンターが開いているときだけで、センターの観覧料が必要である。
決まった時間に無料のボランティアガイド(日本語)があり、英語などに対応したタブレット端末も借りられる。JR青森駅直結の「あおもり縄文ステーションじょもじょも」では、青森県内にある8つの構成資産を紹介している。
亀ヶ岡石器時代遺跡は冬のあいだ閉鎖され、つがる市木造亀ヶ岡考古資料室で多くの出土品を見ることができる。三内丸山遺跡に今建っている建物は現代に復元したもので、当時の建物そのものではない。開館時間や休館日は変わることがあるため、訪れる前に公式サイトで確認してほしい。
出典
- 三内丸山遺跡とはSannai-Maruyama Site Center, Aomori Prefecture
- 三内丸山遺跡Jomon Prehistoric Sites World Heritage Promotion Headquarters
- 縄文時代の扉を開くSannai-Maruyama Site Center, Aomori Prefecture
- 亀ヶ岡石器時代遺跡Jomon Prehistoric Sites World Heritage Promotion Headquarters
- つがる市の位置・地勢・沿革Tsugaru City
- 北海道・北東北の縄文遺跡群Jomon Prehistoric Sites World Heritage Promotion Headquarters
- Learning about the Jomon Prehistoric Sites in Northern JapanJomon Prehistoric Sites World Heritage Promotion Headquarters
